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多摩ニュータウンタイムズについて
多摩ニュータウンの入居開始を控えた1969年、新しい街の地方紙(地方新聞)として創刊し、以来、多摩ニュータウン及びその周辺地域(多摩市、八王子市、稲城市)の皆様に最新ニュースや生活情報などを提供してまいりました。今日まで読者の方々をはじめ皆様からのご支援を頂き、おかげさまで創刊40周年を迎えました。 今後ともご愛読を賜りますようお願い申し上げます。 配布エリア:多摩ニュータウンの全域(多摩市、八王子市、稲城市)

【連載】多摩ニュータウン Archive

【20】開発前史 開発のきっかけ(一)

昭和三十年代に入って安保闘争の学生、労働者たちによる反体制運動の盛り上がりによって当時の池田内閣は所得倍増計画を打ち出し、国民の不満解消を図り、高度経済成長時代に突入した。家庭電気産業、自動車産業、コンピューターなどの大量生産時代に入り、付加価値を高めた電気製品、自動車などの輸出が伸び、企業の設備投資が盛んになるとともに大量の働き手も必要となった。
 そのため地方から都市へと労働人口が流入し始め、中、高校卒業生は金の卵などともてはやされて、就職の受入れに躍起となった時代。
 その人たちもやがて所帯を持つようになって、都市周辺の住宅が不足し、その住宅難の解消を図るための政策を、政府や行政は打ち出さなければならないという状況になっていた。
 この事態に早くも手を打っていたのが大阪府で、昭和三十二年には千里ニュータウン構想を打ち出していた。東京都もこの対応に遅れを取るわけにもいかず、しかも、首都東京としてはメンツにかけても大阪に負けるわけにはいかない。出足が遅れたのだから規模、質においても日本一のベッドタウンを作らなければならないという事になって、三十年代の後半には開発計画の実現に向かって動きだした。
 それが、今日ある多摩ニュータウンの用地開発であった。
 このように全国各地より都市に集まってきた人たちの住宅難の解消のための大住宅団地作りに白羽の矢が建てられたのが、多摩丘陵の未開の農村地帯だった。
 しかし、この大開発を受け入れた地元の人たちはどうでしょうか。
 決して土地所有者のみなさんがこうした大計画をすぐに理解できたわけではありません。先祖伝来守り続けてきた田畑、山林を手放すことは、今まで生きてきた生活の基盤を根底から覆す事になる。農民が土地を手放すことは、子供の時から体で覚えてきた農業という職業を止めなければならない。この心情は、この地域で農業という職業を通じて、四季折々の自然の恩恵を受け、生活をしてきた者にとって耐えがたいものがあった。 しかしニュータウン開発という大儀名文は国家の計画であったのだ。

ポウチ(棒打ち)

ポウチ(棒打ち)

【19】新住事業に都が動き出す②

由木の地主さんの中には売買代金から新たな事業に気前良く投資している人たちも見かけた。用地買収に当たった都の職員はある時、京都で芸者を挙げて遊んでいる人を見かけた。その人がなんと由木の地主さんだったりしたので全く驚いたという。
 また八王子仲町にある料理屋は一時期由木の地主さんたちで持ちきりで、ゼネコンなどの入る余地もなかったという。
 このようにニュータウンの用地代金の一部が各地に流れて行き恩恵をもたらしていたことがうかがえる。
 一生に一度でいいから、札びらを切って、女性を侍らせ殿様気分を味わって見たいという思いがあったからこそ、用地買収も進んだとも言えるのであろう。
 多摩の場合は用地買収に当っていた唐木田出身の横倉というものの二の舞を踏んではいけないという事から、旦那が料理屋通いで店の女性に札びらを切るようなことは奥さん方がさせなかった。財布の紐をしっかりと締め、無駄金は遣わせなかったのだ。それでも二、三の方はやはり八王子の仲町などで一時的に大番振舞いの遊びをしたようではあるが、これも奥様に知られることになり長くは続かなかった。
 区画整理地区が換地処分に決まり、用地の活用に当たってもこれらの気質が既に現れていて、現在の街づくりにも大きな影響が出てきているものと感じている。
 堀之内駅周辺の区画整地内の街づくりは古くからそこに住んでいる地主さんたちの考えが大きく反映しているものと思われる。
 多摩ニュータウン通りの沿線を見るとその違いを見ることが出来る。自分が建てたマンションの一階などで自らが家族と一緒に仕事をしていたのなら街並みは大きくかわっていたのだろうか。
 街の活性化は、地元の人たちが「この街で」商売や事業を営み、地域の変化の実情を肌で感じていくこと。やはりこの昔からの方法が街を活性化し、地域の発展に繋がっていくものと思う。
 よく観察してみると、都の職員「北条さん」が言う、三市にはそれぞれ違った地域性のようなものがあったのだ。勿論その地域性は今でも残されている。

【18】新住事業に都が動き出す①

 「北条おまえ多摩の開発を考えろ」と三十八年ころ東京都首都整備局の山田局長から指名された。当時都の職員であった北条晃敬さんは一人では何も出来ない、相談相手のような人が欲しいと話したところ、いいから一人で始めろと言われて手を付けたのが多摩ニュータウン構想であったのだ。
 その北条さんが現地を歩いて感じた住民の気質を次のように話している。
 稲城の地主さんたちは、商人的か事業家肌の方が多いような気がすると話す。
 大地主の富永重芳さんは家訓や伝統を守り、自分に与えられた仕事や立場を知り、守り続けようとしている、そういう方が多いような感じを受けるとも話す。
 稲城は特産の梨を作りだし今でもその生産は続けられている。
 多摩の住民は純朴な農民というイメージが強い、自然の中で自然の成り行きに委ねようとする人たちが多いような気がする。立地条件や環境にもよるが、何とか自給自足の生活が出来ていたのかも知れない。
 由木の地域では養蚕とめかご、筵、縄などの藁工品、酪農などと新しい産業が起きてきた。そして過去には鑓水商人とまで言われる大小数人の大商人を排出してきた、そのような風土そのものを持っていたと言っていいだろう。
 特に政治には関心が高く、早くから由木独自で井草市郎都議などを都議会に送り出し三多摩壯士的な色合いを多分に残していた。その点からも由木の住民は社会性に富んでいて、親分肌のリーダーが、多く育つような土地柄であったような気がする。
 このように稲城、多摩、由木の三地区の気質が用地の買収にあたっても違いを伺い知ることが出来る。
 稲城の人たちの商人的感覚は用地買収に当たっては先ず土地は必ず縄伸びが有るので公募売買ではなく実測売買でなければ、買収には応じられないということと、多くの方は代替え地を他に求めている買収の終わっていた多摩でも稲城にならって実測売買にしろと、その格差是正の運動となって、集落ごとに生活再建補助として全体の契約面積に応じて追加支払いがなされるという事態もうまれてきた。
 以上の様に三市三様の見方も出来る。北条さんが地元に来て地主さんたちと話が出来たのは、私たちが最初に買収交渉に着手してから五~六年が経過していたことから、その間に多摩の地主さんたちは開発の実現性を感じはじめていて用地を買収されることに、諦めと覚悟を決めていたと言うことが言えるのだろう。

【17】その時多摩は動いた(9)

39年 日本住宅公団を訪れた多摩の地主さんたち

39年 日本住宅公団を訪れた多摩の地主さんたち

 多摩丘陵の広大な用地を取りまとめるという大事業により、多摩ニュータウンの基盤とも言うべきその用地が確保され、奇 跡の買収とまで言われたのは、偏にそこに昔から住み、営々と農業を続けてきた人々の深い理解と協力という大きな力による ものである。私たちが事前の交渉に奔走したことは、それに花を添えたものだった。
 農家を営む人にとって、土地は命の次に大切なもの、いかに新住法(新住宅市街地開発法)と言えども簡単に同調して土地 を手離せるというものではないが、地域の人たちがこぞって協力するものであれば・・・、ということで大勢に順じたという 思いが強かった。
 あれから三十九年の歳月が流れようとしている。その間いろいろな人々によって、いろいろな改革や投資がなされ幾多の変 遷を経て、純農村から近代都市への脱皮を実現させた。
 二千九百六十二ヘクタール(約三千万坪)という広大な用地が二千世帯にも及ぶ農民の手から住宅公団、東京都や都住宅供 給公社の手に渡っていって、多くの人の通勤手段である京王、小田急による鉄道、モノレールの開通、主要幹線道路としての ニユータウン通り、野猿街道、尾根幹線道など交通の動脈が整備され、稲城、多摩、八王子の三市にまたがる生活圏を広げた 新しい都市が出現した。
 日本住宅公団によって、世界にも誇るわが国最大のニュータウンの建設となった。
 そして昭和四十年代後半における都民の住宅難解消のための役割を果たしてきた。
 昭和四十六年に始めての入居を迎えてから三十数年が過ぎた街は熟成の段階に来たと言われている。勿論住民によるコミュ ニティも熟成され、街づくりもそこに住む人たちに主導権が移っていていいはずである。
 ところが多摩ニュータウンは新住法を楯に、都市公団や東京都が未だに街づくりの実権を握り続けている。四季の丘の分譲 の時のように、民間住宅より廉価で質の良いものとして公団住宅に人々が殺到した時代は終わり、公団の役割は終わったのだ と思う。
 公団もそのことは認めていて、住宅建設からは手を引いた。当初の開発からの責任回避ともとれる、住宅都市整備公団から 都市基盤整備公団に名称を変えている。
 だが多摩市、八王子市、稲城市の各地区は未だ使われていない土地を大量に抱えている。今後民間に売却して共同開発とい う形で未利用地の住宅開発を進めていくものと思われる。

【16】その時多摩は動いた(8)

 多摩ニュータウンの用地代金が最初に公団に代わって支払われたのは昭和三十八年十二月八日であった。日本が二十三年前の真珠湾攻撃 によって、米英に宣戦を布告し、大東亜戦争に突入したのがその日なのだ。何かのはじまりのような予感がしていた。
 その年の暮れまでに一人、また一人と契約が結ばれていき、翌三十九年三月までには、最初に手がけた諏訪、永山地区の大部分の地主さ んとの契約は完了した。
 売却代金を巡り農協や銀行の預金獲得には血眼の戦いが繰り広げられた。最初の契約に基づく支払いは八王子駅北口の日興證券八王子支 店の二階で行われた。
 関戸の私たちの事務所で契約が行われる時には数社の銀行員が事務所の回りを二重三重に取り囲むという程の物々しさであった。  そのようなことから地主さんの多くは、契約の前に銀行や農協と話が済んでいて、札束の山を見ずに数字だけが通帳に記入されていくよ うになっていった。
 中には、先祖からの土地を手放すのだから代金は現金でなければ・・・と言う人もいて、そういう場合は現金で支払われた。
 こうして翌三十九年三月までには多摩ニュータウンで最初に手掛けた諏訪、永山地区の大部分の地主さんとの契約は完了し、用地が確保 され、続いて豊ヶ丘、落合地区へと買収は進んでいった。
 一方、東京都も愛宕、鹿島、松が谷地区へと買収交渉を進めていた。
 昭和三十八年七月には新住宅市街地開発法が公布され、昭和四十年十二月多摩丘陵の二千九百六十二ヘクタールが新住宅市街地開発事業 として都市計画に決定され、多摩ニュータウン区域となった。これに基づいて日本住宅公団、東京都、都住宅供給公社がそれぞれこの法律 に基づいた用地買収交渉に入っていった。
 昭和四十一年から区域内の買収が本格化し、一気に開発が進む。
 こうして全国的にも、いや世界的にも稀に見る新しい街の建設が動きだしたのだ。
 この買収交渉は収用権があるということから地主さんの協力が案外スムーズに進んだように見えた。その要因の一つとも考えられるのは、 昭和三十六年以来足掛け四年の歳月をかけて諏訪、永山地区の買収交渉に取り組んできたのだが、その様子が他の地域の乞田、落合、由木 村の堀之内、別所、松木、南大沢、鑓水などの地主さんたちに親戚や知人を通じて逐一知らされていたことにあったと思う。
 彼らはやがて我が身が決断しなければならない問題として受け止め、既に腹を決めていてくれていたのだ。

【15】その時多摩は動いた(7)

 多くの人が関わる仕事を手掛けるときには命がけでなければならないということを身をもって体験することにな った。
 この広大な用地を取りまとめるという大事業は、自分のことだけを考えたり真実を明かさず儲けようなどという姑息な手段や考え では、決してなし遂げることはできないということを知ったのである。何しろ多摩丘陵はじまって以来の大開発であったのだから。
 さて地主さんたちとの間は何とか話ををつなぎとめることができたが、住宅公団の方はというとなかなか話は先に進まなかった。
 公団とすれば、まもなく新しい法律に基づいて住宅開発が行われようとしていることが判っていたので、それまでの間どこか民間 の業者に用地を確保しておいて欲しかったのだ。
 資金調達の不可能であった木崎物産㈱から日興不動産㈱に公団の代行役が移行し、その日興不動産と私たちは提携して業務を進め
ることになった。
 私たちはまだ会社組織ではなかったので、名刺には住所の前に「日興不動産指定」という肩書を入れていた。従業員は女性事務員 一名、営業兼運転手二名と横倉、高村の五人。多摩町関戸八三五番地小山酒店前に昭和三八年の四月頃から、既に建っていた二階だ て事務所を増築して業務を開始した。

 この事務所では日興の浅野営業部次長が陣頭指揮を取り、公団とも連絡を取りながら、相談しつつ話が進められるようになった。 日興不動産から最初に送り込まれてきた社員は大学を出たばかりの新入社員、前田昌男氏だった。
 彼は毎日、本社から運転手付きの乗用車(クラウン)で我々の事務所に通勤することになった。
 買収交渉が大詰めを迎えた三十八年の十月頃には、地主さんたちとの売買契約締結の準備に追われ、その頃になると日興からの社 員は十二人ないし十三人に膨れ上がり、それぞれ何組かに分かれて地主さん宅を訪問した。私たちは夕方や夜遅くに帰ってくる彼ら の報告を聞くのが日課となった。
 その頃テレビでは東京オリンピックの様子を毎日放送していた。誰もがテレビにくぎづけになってしまったので、思い切ってカラ ーテレビに買い換えた。そんな時代である。
 いよいよ日興不動産の振り出した手形を多摩町農協を通して都信連や農林中金で割り引いて用地代を支払うことになった。その時、 日興不動産が振り出した手形の額は六億何千万円かと推測されている。

【14】その時多摩は動いた(6)

このころの私は、親戚や知人、地域の人たちから異端児扱いされるという苦しい状況におかれていた。
 それもそのはず用地の買収交渉は、やがて三年にもなろうとしているというのに開発の当事者さえ決まっていない。  地主さんたちへの用地代の支払いのメドも立っていない。経費はどんどん嵩んでゆく。この間収入は全くのゼロ。周囲の人たちや親戚の者には、この仕事を早くやめろと言いだされていた。
 男として、一度やり始めた以上途中で放り出すわけにはいかず精神的にも最も苦しい時期であった。
 そんなある日、貝取の下野峰雄さんを経過報告で訪ねた。
 事業主体となる住宅公団との取組みも決まったし、いよいよこれから用地買収の具体的な方向で動きだすことを報告した。
 ところが下野さんは私に「今まで、大変永い間骨を折ってきたかも知れないが、地主さんたちはもう熱が覚めてきているしこれ以上進めても難しくなるだけで大変だから、この辺でやめたほうがいいのじゃないか」と話を切り出したのだった。
 その時私は即座に「この仕事は絶対にやめません。私はこの仕事で儲けようなどとは思ってはおりませんし、この開発が出来ればいんです。損得など毛頭考えてはおりません。何が何でもやり遂げるんです」と答えたらしい。
 私は自分の言ったことをすっかり忘れてしまっていたが、後になって下野さんから打ち明け話として聞かされたのだ。
 あの時下野さんは、私のためを思って「もうやめたほうがいいよ」と忠告したつもりだったという。
 その下野さんが地主さんたちに私の固い決意を伝えてくれたのか、暗礁に乗り上げていたと思われていた買収交渉はその後急速に進み、奇跡の買収と言われるほど地主さんたちからの協力も得られ、再び軌道に乗りはじめたのだった。
 このように土地の交渉が進むにつれ、地主として同じ立場でもある横倉などに儲けられるのではないかとの疑問もでたのだろうが、そんな時にも下野さんのように私の心情を皆に伝え、陰で支えてくれる人たちによって、私のような異端児にも信頼と同志的な親密感を抱いて多くの方々が協力をして下さったものと思っている。

【13】その時多摩は動いた(5)

二人は靖国神社の拝殿に並び、百円玉を賽銭箱に投げ入れお参りを済ませた。
 その時何を祈ったのかは忘れてしまったが、二人はそれぞれの思いで手を合わせたのだった。
 とにかく、正月なんだから記念の写真を撮ろうということになり、山門の菊のご紋章を背景に高村君は腰を掛け、私が立っている写真となったのである。
 数年経ってから写真を見たら、いかにも田舎者が上京してきましたという姿である。
 オーバーは厚手の膝下まであるような長いもので、マフラーも時代遅れの厚手のものであった。

 ふと気が付くと高村君が拝殿の脇で「おみくじ」を引き、開いているのが目に入った。私は近づいて『おみくじなど引くとは珍しいこともあるなあ』と思いながら「どんなことが書いてあるんだ」と聞くと彼は、突然後ろ向きになったと思ったら、素早く両手でおみくじを丸め、ポンッと自分の口の中に放り込んでしまった。ゴクンと飲み込んでから、「大切なものだから腹の中に収めてしまった」と言う。
 何が書いてあったのかと私がしつこく聞き出すと「思うように進め」と書いてあったと言う。
 私はこの高村君の言葉を疑うことなく、透かさずこれに答え、「住宅公団に決めた」とその場で考えを明らかにし、高村君もこれに同調し、「よし、やろう!」「明日から住宅公団、ということで全力で進めよう」と二人は決意を確かめ合った。
 腹が決まったところで、再び靖国神社の拝殿に手を合わせ、改めて仕事の進展を祈った。進む方向も決まって、二人は意気揚々と市ヶ谷の駅に向かったのだった。
 後で分かった話ではあるが、あの時の「おみくじ」は本当のところ、「凶」だったという。もしこのことを横倉に知らせたら、多分この用地の取り纏めを投げ出してしまうだろう。私のやる気をなくさないようにしなければと思い、「思うように進め」という言葉が咄嗟に出たのだという。
 確かに、あの時二人の心に動揺が起きていたら、今日の多摩ニュータウンが出現していたかどうかは疑問である。
 それを懸念して高村君は私に見せず飲み込んでしまったのだ。多摩における住宅公団との関わり合いはこの高村君の咄嗟に出た一言によって始まった。そしてこの一瞬によって、多摩ニュータウンという住宅都市の開発が始まり、自然豊かな多摩丘陵が変貌を遂げることになったのだ。

【12】その時多摩は動いた(4)

 小金井市の開発会社小泉社長の持ちかけた東京都との話し合いはその後具体的な進展は見せなかった。一方木崎物産㈱の木崎社長から進められていた住宅公団による大規模住宅団地の買収計画の意向を確かめる必要があった。
 木崎社長と南木専務は「住宅公団の買収の意向が示された。木崎物産を通じて公団に持ち込みたいので是非やらせて欲しい」と再三にわたって働きかけてきた。高村さんと私は千代田区にある本社を訪れ、真意を確かめると同時に木崎社長に住宅公団への案内を申し入れた。
 木崎物産の本社は半蔵門の英国大使館隣にあって社員二十名ほどの会社で、宅地開発や造成分譲などに取り組んでいた。その頃木崎物産は日野市平山城址公園駅近くの山林約十万坪を買収し、宅地造成を手掛けていた。現在の平山団地である。後になって分かったことであるが、当時の聖蹟桜ヶ丘駅北側一帯の水田(現在は京王ショッピングセンター、京王本社、ザスクエアなどがある)を買収するからと言って、京王電鉄から当時の金額で一億円を先取りしていたという。しかし買収は出来なかったためその見返りとして、先に買収していた平山城址公園駅近くの造成地を京王電鉄に引き渡す結果となり、後に京王電鉄が宅地造成分譲を行ったのである。

山合いの大地に広がる麦とじゃがいも畑

山合いの大地に広がる麦とじゃがいも畑

 なぜここで木崎物産を紹介しなければならないのか。それは多摩ニュータウンに日本住宅公団が本格的に乗り込んで、新住宅市街地開発法に基づく用地買収を始めたのに先行して、木崎物産は用地確保に動いてくれたからである。それらの橋渡し役の中で生まれた数々の、まるでドラマのような出来事を私たちは忘れることができない。
 昭和三十八年一月四日新年の初出勤の日、高村さんと私は木崎社長の案内で九段にある日本住宅公団を訪れた。首都圏開発本部の長谷川課長に会って永山諏訪地区を買収する意向のあることが確認できた。遠方より訪れた私たちに、長谷川課長は地下の社員食堂に案内してくれ、食事をしながら懇談することができた。
 住宅公団の玄関を出るとすぐ目の前が靖国神社の大鳥居である。木崎社長と別れた私たちは久しぶりに参拝していくことにした。大鳥居をくぐって境内に進んだ。拝殿手前には扉に大きな金色の菊のご紋章がついた門がある。そこに写真屋がいるのを見かけた。「お参りした後記念写真でも撮ろうじゃないか」と高村さんに話しかけた。
 ドラマの始まりであった。

【11】その時多摩は動いた(3)

 小泉社長との会談は、私たちが日頃から馴染みにしていた分倍河原の高倉荘という料理屋だった。
 その席で小泉氏は「東京都が大阪の千里ニュータウンをしのぐ、世界にも誇る一大住宅団地の構想を持っていて、それを進めようとしていること。そのため各開発業者はその動向を見守っていて、既に動き出している業者も数社に登っていること」を説明した。私たちの用地買収の話を東京都に持ち込むよう勧められた。
 数日後、小泉氏の案内で都庁第二庁舎へ出かけた。小泉氏は住宅局の担当者の席で打ち合わせなのか、説明なのか手間取っていた。高村さんと私はカウンターの外にあるビニール張りの古い長椅子で待たされた。三十~四十分は待っただろう、緊張していた気持ちも薄らぎ、連日の疲れが出たのか眠気がさしていつの間にか待合いの長椅子に横になっていた。
 その間高村さんは小泉氏と係官との打ち合わせの様子を遠くから見ていた。どうやら話がついてカウンターの中に入ってくるよう合図があって、急遽私たちも気を取り直し、担当者との話に加わることになった。

公団側への現地説明(39年、現在の諏訪5丁目)

公団側への現地説明(39年、現在の諏訪5丁目)

 担当者の自席の前で名刺を差し出し挨拶を交わした。だが小泉氏が話していたほど都の係官は積極的では無かった。もちろん初めて会ったのだからそうすぐ具体的な話にはならなかった。第一、その時差し出した私たちの名刺には、何の肩書きもなく、名前と住所だけ、何者かが判らないのも当たり前で、係官が慎重であったのも無理はなかった。あまりに待たされて熱が冷めてしまっていた私たちの脳裏には、もう一つの話が去来し、本腰が入らなかったのも事実だった。後日、小泉氏からは是非とも東京都の方に話を進めてほしいと依頼されたが、とにかく都の出方を待つことにした。
 同時に持ち込まれていたもう一つの話しも、引き続き進めることにした。それが木崎物産(株)からの申し出であった。社長の木崎氏は国会議員当時の顔を生かして、住宅公団に大規模住宅団地の開発用地を持ち込み、用地の確保が可能になった時点で住宅公団が買収するという業務を主力としていた。
 木崎茂男氏は西多摩郡成木村の出身で、戦後若くして同村の村長を務め、昭和三十年に衆議院選に打って出て見事当選した。若手代議士として三多摩の開発に情熱を傾けている人で、大きな期待が寄せられていた。戦争で片足を無くし義足をつけた傷痍軍人であった。義足を補うために一本だけの松葉杖を使って国会内を走り回り、首都圏構想を提案、その法案の成立を実現させた。昭和三十三年の衆議院選では落選し、その後木崎物産(株)を設立した。

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