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多摩ニュータウンタイムズについて
多摩ニュータウンの入居開始を控えた1969年、新しい街の地方紙(地方新聞)として創刊し、以来、多摩ニュータウン及びその周辺地域(多摩市、八王子市、稲城市)の皆様に最新ニュースや生活情報などを提供してまいりました。今日まで読者の方々をはじめ皆様からのご支援を頂き、おかげさまで創刊40周年を迎えました。 今後ともご愛読を賜りますようお願い申し上げます。 配布エリア:多摩ニュータウンの全域(多摩市、八王子市、稲城市)

【連載】多摩ニュータウン Archive

【30】雑木林が住宅地や大学に

多摩ニュータウンができた理由の一つに、多摩丘陵一帯が広大な雑木林であったことをあげることができる。 その雑木林は「薪炭林」とも呼ばれていた。 江戸東京の人々の生活になくてはならない台所の燃料や暖房用の薪、炭を生産し、供給してきた。 雑木林のもう一つの大きな役割として見逃せないのが落ち葉の効用である。 都心に近い世田谷、練馬、調布、府中、国分寺などの農家が生産する生鮮野菜の有機肥料として、この豊富な落葉は野菜栽培に欠かすことの出来ないものとなっていた。 多摩ニュータウンの最初の開発が始まった諏訪・永山地域には府中市などの野菜栽培農家が所有していた雑木林が相当数含まれていた。 1月も過ぎ、2月に入るとこれらの野菜栽培農家が一斉に多摩川を渡って、多摩丘陵の雑木林に落ち葉を集めに弁当持ちでやって来る。茄子や胡瓜、トマトなどの苗床とサツマイモの苗床には欠かすことの出来ない釀熱材でもあったのだ。 作物に施す堆肥の材料であると同時に牛馬などを飼育する保温材料でもあるこの落ち葉を大籠に詰めて牛車等で運ぶ風景が各所で見られたものだ。籠でなくて木の枝や笹などで落ち葉を管状に丸め束ねて運ぶ人たちもいた。 多摩地域の人たちの冬の山仕事は落ち葉掃きや薪切り、炭焼きなどが主であった。農業を営む上で冬の仕事こそが夏の作柄を決める要素となっていた。 多摩丘陵の雑木林はその他にも多摩地域を大きく変えるきっかけとなった。 多摩都市モノレールに乗って沿線を見たとき、今も雑木林の風景を留めているのは中央大学、明星大学駅と多摩動物公園付近であるが、その姿はかつて多摩の農家が管理していた雑木林の姿ではない。 薪炭を生産していた当時、楢や櫟を伐採したあとの、ひこばえ(ほい)が育って10年から15年が経った頃が一番薪や炭に適していると言われていた。木に粘りけと油気があって、燃やして火力があり、炭にして壊れにくいなどの理由から以前の雑木林は若木が大半を占めていたのだ。 燃料として石油が登場したことによって雑木林の役割は大きく変わり、「多摩丘陵」はゴルフ場や大学の学舎となったり、多摩テックのような遊園地や住宅地へと変貌していった。

多摩ニュータウン(29) 沢庵の美味しい季節 横倉舜三

漬物樽(たる)

 一月も十五日を過ぎると正月気分は全く無くなってしまう。十五、十六日の小正月も、成人式の日取りが変わってしまったこともあってすっかり昔の面影は薄らいでしまった。
 ある日の夕方「三越」の地下食品売り場を歩いていると…(このところデパートの中を取り立てて買い物もないのにぶらぶら歩いて廻るのは殆ど日課のようになっていたのだが)。
 ふと漬物屋さんを見ると昔懐かしい糠のついた田舎風の沢庵の浅漬けとでもいうような美味しそうな漬物が目に入り、急に沢庵漬けが食べたくなったので一本の半分を買って帰る事にした。食べる分だけ糠を洗い、残りは冷蔵庫に入れて置いて下さいと店員さんが教えてくれた。
 私の家では、いつも一番寒い所にあたる裏口の「ひさし」の下に重石を幾つも乗せて樽に沢庵の浅漬けを漬け込んでいた。
 それを冬の寒いときに出してきては、食事前に何切れもお茶受けとして食べてしまった事を思い出した。「沢庵とみそ汁があればいい」という時代に生まれ育った者としては、久しぶりに自家製のような味を味わう事が出来た。しかしこの沢庵の作り方を知らない家庭も増え、私が抱くような沢庵に対する懐かしさも消えてゆくようだ。
 大根は、漬け込む時期を計算して畑に種を播く。「大根引き」という収穫のため畑から抜き取る時期も、ひと霜ぐらい当たったころが甘味が出てきていいという。干し具合といい、塩や糠の加減といい、すべて人の「勘」によって作られる。栽培する畑の土は粘土質ではなく軽いサラサラした土質の方が肌が綺麗でまっすぐな大根ができる。子供を含めて家の者全員で十本から十五本ぐらいを「背負いばしご」で家まで運び井戸で洗う。二本ずつ葉の部分で束ね、吊るし干しする。この作業も年末の家族の大事な行事となっていた。
 このような漬物のプロセスを知っていて食べるのと、ただ買ってきて食べるのとでは随分と違った「あじ」になるのでは。私たちは豊かで快適な、しかも便利な生活を追い求めてきた。これでもか、これでもかと便利さを求めすぎて、旬の時期もなんのその、冷凍食品や電子レンジで暖めるだけのインスタント食品が出まわり、冷茶、ウーロン茶、ジュースなど冷蔵庫から取り出すだけで缶のままお客様にも出せる昨今だ。作る手間や調理のプロセスが省略されてしまい出される料理に「有難味」がなくなってきている。作った人の心が伝わってこないからだろう。 040115号掲載

【28】十五夜と「すすき」

中秋の名月と言われる十五夜のお月見の頃は、最も気候の良い季節である。
 縁側に小さな机を出して、すすきの穂や女郎花、ワレモコウの花などを一升徳利に飾り、お団子や酒饅頭、柿や栗、梨などお月さまに因んで丸い果物や野菜をお供えして、満月を祝い祭る風習があった。
 この十五夜の晩だけは、子どもたちが他の家の十五夜のお供え物をこっそりと持って行ってもよいことになっていた。
 月に照らし出された明るい縁側に、庭木の陰からこっそり忍び寄りお供え物を持って逃げる姿が…すると透かさず家の人から「饅頭はいいから入れ物は置いといてね」という声が掛かる。子どもは素直に入れ物を間口に置いていく。
 当時の子どもは普段、着物を着ていたので、せいぜい「ふところ」か「たもと」に入るぐらいしか持っていかず、また欲をかいても持ち切れなかった。
 子どもたちは日頃から農作業や家事の手伝いをしてきたので、一年に一度の地域社会からのほうびだったのだろう。
 さて十五夜のお月見に欠かすことの出来ないのが「ススキ」、何となく月とススキは風情がある。
 いまも多摩ニュータウンの法面や空き地や未利用地のあちらこちらでススキの穂が風に揺らいでいる。かつてこの地方ではススキが最も大事なものの一つとされていた。全ての家々は草葺の屋根で、その家々の雨露、寒さ暑さを凌いだのが茅葺きの屋根、つまり全ての家の屋根の材料として(茅)ススキが使われていたのである。
 その茅は十一月から暮れにかけて、雪が降るまでの間に一本残らず刈り取られていった。
 この丘陵地帯では屋根を葺く材料である茅を生産するための茅場が雑木林に混じって点在していた。そしてその多くは山林所有者が管理していた。
 ところが初夏の農繁期を迎えた5~6月頃になると牛馬の活躍する場面ともなってくる。牛馬が最も好んで食べるのが茅の若草なので、朝早く馬の餌にするために茅場の茅が刈られてしまう。一度夏に刈ってしまうと、その秋の茅は価値が無くなってしまう。
 そうしたことがあって、地域の誰でもが利用出来る「共有地」を設けてそこを「草苅場」と言っていた。
 選挙での「草苅場」と言うのはここから生まれたもので、「誰でも票を集められる場」という意味であると思う。

【27】妻子が待つマイホームに
住民がピストン輸送

諏訪、永山地区に入居第一陣を迎えて1年が経った昭和47年3月頃、京王相模原線や小田急多摩線の鉄道工事は始まっていたものの住民の足の問題が解決したわけではなかった。
 当時ニュータウンは、京王線聖蹟桜ヶ丘駅と小田急線鶴川駅との間を京王バス、神奈川中央バスの2社のバスで繋がれていた。朝夕のラッシュ時には途中無停車で急行してようやく間に合うというのが現状である。雪の日や雨の日に積み残された乗客の行列は気の毒であった。諏訪、永山地区には当時5600戸が入居しており、この3月には愛宕地区の入居も開始される。
 ところが勤めから帰り桜ヶ丘に着くのが10時半過ぎると終バスはない。タクシーもあるがバス料金の10倍以上を払うことになる。しかもタクシーに乗るためには長時間並んで待たなければならない。
 桜ヶ丘駅のホームに電車が着くたびにホームからの階段を先を争い駆け降りてくる、その足音と一人でも追い越して先に出ようとする気迫ある行動は異常ともいえる。そしてタクシーを待つ列に加わるのである。新しいマイホームに住んで日が浅い、妻や小さい子供が待つ家に一刻も早く帰りたいというのは人情である。折角桜ヶ丘駅に着いても、ここでまた30分、1時間待たなければならない、こんな日々が続くと、何とかならないものかと考えるようになる。
 だが、この新しい街はまだこれに応えられるようにはなっていない。夜になると、文字通り陸の孤島化するのが世界に誇る「多摩ニュータウン」の現状である。
 京王新宿発の特急は最終が午後11時で、聖蹟桜ヶ丘駅着は同11時25分だが、同駅の最終バスには間に合わない。せっかく特急に乗ってもニュータウン行きの足は、タクシー以外にはない。夜10時半以後に聖蹟桜ヶ丘駅に下車して、折返し帰ってくる駅前のタクシーを待つ人たちで毎晩長蛇の列が続く。
 多摩ニュータウンの入居募集案内などのうたい文句は「新宿から25分」、「職住近接」などであった。
 そこでこの交通問題を何とかしようと立ち上がったのが、「多摩交通問題実力突破委員会」と称する自主運行だった。バスのなくなった午後10時半以後終電まで、京王桜ヶ丘駅とニュータウン間の約6㎞を9人乗りのワゴン車で5回~8回のピストン輸送をする。少しでも帰宅の遅れを緩和しようと住民側が動き始めたのだった。車の横には白字で大きく「自主運行車」、小さく「多摩交通問題実力突破委員会」と書かれている。
 陸運局は黙認していたのだろう。

【26】“しきたり”の消えた社会〈1〉

近所の人がお相伴を務める婚礼

近所の人がお相伴を務める婚礼

多摩丘陵に根づいていた養蚕という一大産業。生糸や織物の生産地であったり集積地であった八王子とその周辺地域は、養蚕がもたらした賑わいで活気に満ちていた。
 ところが戦争が長期化したため生糸の輸出が伸び悩み、戦後になると徐々に姿を消し、ついに生糸の生産は壊滅してしまった。
 現金収入の道を絶たれてしまった多摩の農民は、生活を支えていくだけでも困難な状況になっていた。そしてやがて地域社会の構造までもが変化せざるを得ない状況へと進んでいった。
 新しい都市構造を目指すことによって、そこに産業が生み出されるものと期待した。
 しかしついに多摩ニュータウンという大住宅都市が実現したものの、地域全体を潤すような産業は生まれてはこなかった。
 古くからこの地域に生きてきた人たちは隣近所で助け合って生きてきた。一人の個人や一軒の農家だけでは生きてはいけない社会が定着していたからだ。
 地域のため、村のために働き、地域共同体社会を作り上げてきた。「しきたり」を守り、道路普請、水路さらい、堰普請、近所の屋根替え、建前、結婚式、葬式などは全て「しきたり」に基づいてみんなで行ってきた。これに参加出来なければ村八分となって、隣近所から相手にされなくなってしまう。それは自分の生活を守るための唯一の道でもあったのだ。
 これらに対して幾らか報酬をくれなどという主張は通用しなかったし、そういう論理もそこには生まれてこなかった。
 いま、こうした地域社会を支えてきた”ものの見方、考え方、掟、しきたり、習わし”といったものが全て崩れさってしまった。
 このように地域産業の「死」は一つの地域社会の「死」にも繋がり、地域コミュニティまでも崩壊させることになってしまった。
 地域コミュニティがないところには、地域への愛着もなく、地域のためにという発想も生まれてこないし、地域の発展も期待できない。
 地域共同体意識の社会に替わって、どんな社会が生まれてきたのだろうか。互いに助け合いながら生きるという当たり前のことが難しい社会になってきた。この地域に根づいて生きてきた者の思いには複雑なものがある。

【25】五百年を生きぬいたヒイラギの古木


500年もの間人々と共に生きつづけてきた落合の小泉家裏の「ヒイラギの大木」。多摩ニュータウンの開発によって、京王相模原線の計画路線内に入ってしまった。
 にわかに「鉄道」か「ヒイラギ」かで大きく注目されることになった。地元市民らは保存の運動を起こし、都や住宅公団に対しても保存要請を行ってきた。なかでも近くに住む浜西節郎市議(当時)が保存要請を市議会に提案し、昭和48年、ようやく多摩市天然記念物に指定された。12月には都、住宅公団の両者が移植費負担を承認し、当時の市議会の可決によって移植することになり、その後8年間にわたって移植のための根回しや養生が続けられた。
 しかし樹体の老衰は思ったより著しく、枯れる枝などが目立ち、移植しても活着がほとんど期待できないということと周囲の環境が変わってきてしまったために、玉川大学教授の診断などにより、59年5月天然記念物の指定が解除され、伐採されることになった。 すでに多摩センター駅まで開通している京王相模原線の駅西方200㍍の所の鉄道敷に予定されているところで、延伸のための整地が急がれていることもあって、7月16日、まず養生のために根元の空洞部分に詰め込まれていたコンクリートが取り除かれ、チエーンソーにより500年の命は断たれたのだった。
 伐採された幹の一部は郷土資料館に展示して永く後世に伝えていくという。伐採までに都や住宅公団、都住宅供給公社などが移植準備や養生のために要したた費用は総額約694万円にもなった。この経過は16ミリ映画、スチール写真などに収められている。
 他にもこのニュータウンの開発によって多くの銘木古木が消えていっている。
 落合地区だけでも峰岸久男さん宅の「さいかちの大木」、唐木田の稲荷神社の御神木「山桜の大木」も58年の暮れには切り倒された。 またこの地域の名産「禅寺丸(柿)の古木」も数百年以上と思われるものだけでも100本を越えていただろう。
 私の庭にも300~400年は経っていると思われる白一重咲きの「山茶花の古木」も中沢公園に移してもらったが枯れてしまった。
 せめてもの救いは川井家に生き残った「しだれ桜の大木」が毎年春に沢山のつぼみをふくらませてくれることだ。

【24】「アニメの舞台に…」

開発前の風景

開発前の風景

平成5年12月、突然『平成狸合戦ぽんぽこ』のビデオテープが届いた。このアニメ映画のプロデューサーである鈴木敏夫さんからだった。
 そういえば以前「多摩のタヌキについて話を聞きたい」と、スタジオジブリ取締役制作部長でもある鈴木敏夫さんと大塚雅彦さん、監督の高畑勲さんがお見えになったことを思い出した。『あの時話したタヌキの映画が出来上がったのかぁ』と思いながらも、そのまま書棚に仕舞い込んでいた。
 何ヶ月も過ぎた頃、「横倉さん、ぽんぽこの映画にどう関わったのですか」と知人に尋ねられた。「映画の終わりで、横倉さんの名前が協力者のところに出ていますよ」と教えてくれた。
 早速ビデオを見る。懐かしくまた美しい多摩丘陵の風景、タヌキが喋る言葉には、かつて自分たちが日常話していたような会話や身近な人の名前が出てきたりして、何とも気恥ずかしいやら、おかしいやらで思ず笑い出してしまった。
 民放でも何度か放映された。映画は、人間がニュータウンの開発に伴ってタヌキたちの住み家となっていた多摩丘陵の自然を破壊し、強引に宅地造成を行おうとするところから始まる。タヌキたちはこれにマッタをかけようと知恵をしぼって抵抗運動を開始するが、人間による開発はいっこうに止む気配はなく、自然の景色や姿は失われていってしまう。どうしても力が足りず、ズルズルと後退していく。そんなタヌキたちの賢いけれどどこかドジな姿に笑いながらの同情、そう、これは悲しい話なんだと強く意識させられる。作家、池澤夏樹さんは「面白うて、やがて悲しき…」とこの映画を評している。タヌキたちのしぶとい抵抗は、圧倒的な実力の差のもとに行われる戦いの結末を物語っている。
 しかし大事なのは、彼らがいかなる価値のために戦ったのかである。映画はそれを最後の場面で見せてくれる。タヌキたちは残った力をふりしぼって、かつての緑薫る多摩丘陵の姿を再現して見せる。春の小川にはオタマジャクシのいる澄んだ水が流れ、田んぼには一面レンゲの花が咲く。タヌキたちが失ったものは風景だけではない。自分たちの暮らしそのものだった。
 その姿は多摩丘陵の豊かな自然とともに穏やかに暮らしてきた自分たちの姿に似ているのだ。タヌキたちは私たちの思いを映画の中で代わって演じてくれているような気がする。
 制作から10年、アニメ映画でありながらも人の心に残る原風景とそこでの人間らしい暮らし、いつまでもそうありたいと願う人たちに深い思いを伝えてくれた優れた作品だと思う。

【23】開発前史「養蚕」

 せっかく育ててきた蚕(かいこ)も、繭(まゆ)になる間際に餌にする桑が不足したり、逆に人手が足りなくて桑が余ったりする農家が出てくる。そうした農家を結びつける桑の市が数日間立つ。多摩では乞田の増田商店や東寺方の森沢商店、由木では松木の大沢商店などだ。
 蚕から繭になったものを生繭と言い、そのままにしておくと数日後には中の蛹(さなぎ)が成虫の蛾(が)になって繭を破って外に出てくる。そうなると蛾が出た穴のところで糸が切れてしまい、価値がなくなってしまう。生糸や生繭を買う仲買人も廻ってきたが、大手製糸工場は他の製糸会社と競って繭の集荷、買い付けのために養蚕の掃きたて当初より各農家を巡回する養蚕指導員を雇っていた。
 行政も養蚕の振興に力を注ぎ、各市町村には東京府の職員として養蚕指導員を駐在させた。既に大正の初めには養蚕の技術と学問習得のための東京府立府中農蚕学校、そして神奈川県立橋本農蚕学校、つづいて染物と織物の東京府立八王子職染学校が開校していた。
 養蚕は農家の現金収入となっただけでなく家族の着物を備えることにも大いに助けとなった。その場合、まず生繭を”乾燥”させなければならない。専用の乾燥倉の中で炭火を焚いて一昼夜乾燥させる。乾燥倉のある家は数件しかなく、その時期になると近所の家が交代で借りる。家の人は、他の家の繭の乾燥のために夜も数回起きて見回りをする。炭火が強ければ繭を焦がし、糸質を弱くしてしまう。火力が弱ければ蛹が完全に乾燥しない。時には繭を切って確認することもあった。娘さんのいる家では2~3台の糸取り機で朝早くから夜遅くまで互いに競って乾燥を終えた繭から”糸をとる”。自分が嫁ぐときに持っていく着物になるのだから苦にならなかった〔ここで糸を”撚(よ)って”太く柔らかくする工程を加えると白く輝く絹糸になる〕。次にこの生糸を機織機(はたおりき)で”織って”反物にする。それを分倍河原や府中の紺屋(染物屋)で好きな友禅柄に”染め”てもらい”仕立て”れば、それこそ美しい正絹の着物が出来上がる。
 秋の夜長、糸取りや機(はた)を織る娘さん目当てに村の若者たちが用事にかこつけて何度も立ち寄り、祭りに誘い出す約束をしたりする。そうして冬になるとあちこちで結婚が決まったという話を聞いたりした。
 昭和二十年代も終わり、それまで地域の連帯の役割を果たしてきた養蚕組合も解散に至ると、多摩丘陵は拠りどころを失ったような農村社会となっていった。

繭からとった生糸で反物を織る

【22】開発に至る経緯

 養蚕という主産業をなくし、近郊農業への転換を図るも、猫の額のような畑や山間の田んぼでの、人の背中に頼る農業を一朝一夕に変えることはできず戸惑いの中にあっても、ある者は酪農、養豚、養鶏へとそれぞれが新しい取り組みに動いていた。
 麦まきなどの時は堆肥を丘の上の畑に家族総出で背負い運ぶのが最大の仕事となっていた。先ず畑や田んぼへ通じる農道に三輪車や耕運機が入れるようにしなければと、農家総出で農道を整備する。
 しかしこの丘陵の傾斜地にできた手作り農道に入ることができたのは、せいぜい牛車ぐらいだった。
 やはり近代農業への転換は一気に進めなければならない。まず機械や軽トラックなどの導入資金に当てるため、山林を売却しようと、集落から少し離れた中沢地区の共有林(当時は開墾して畑となっていた)を中心にゴルフ場の誘致を決める。これが府中カントリークラブである。
 ところが、土地を売却したことを家族に黙っている訳にはいかない。「お父さんお金が入ったんでしょう。電気洗濯機が欲しい、家が古くなっているので台所を、屋根を修理して、いっそのこと新しく建替えましょう」と妻が言えば、「僕はオートバイが欲しい、大学にも入りたい」と息子が言い出す。山林や畑を売却した代金は、農業の近代化のための資金にまわすどころではなくなった。生活様式も薪や炭、木材などが生産された山林がなくなったことで、ガスや石油、電気を使うように変わっていった。
 さらに、時は高度経済成長時代の幕開けとも重なり、銀行は大企業の設備投資のために資金を回すための金集めに躍起となっていた。結局、売却代金は銀行に貯金として集められてしまうことに。ゴルフ場開場後は、コースの管理、クラブハウス要員としてそこが多くの人の職場となる。
 こうして戦後間もなく、自給自足のための食料と都心への新鮮野菜などの供給に力を入れてきたものの、丘陵のため農業の近代化が図れず、昭和三十年代に入ってから、この地域はゴルフ場の建設ラッシュを迎えた。府中カントリークラブに続き多摩カントリークラブ、東京国際カントリークラブ、桜ヶ丘カントリークラブ、読売カントリークラブ、米軍の多摩ゴルフコースがオープン。
 薪炭林であった多摩丘陵の山林は、ゴルフのメッカと変わっていき、いよいよ三十六年にはニュータウンの一大開発へと進むのである。

【21】開発前史 開発のきっかけ(ニ)

 戦後経済発展の原動力となっていた人たちや、輸出産業の担い手として活躍していた人たちの住む場所を確保するためだと言うのだから、反対するわけにもいかず困ってしまったのです。
 同じ頃、千葉の成田空港建設では、地権者が命を懸けての反対闘争を繰り広げており、その情報も当然耳に入り反対する術もあったのですが、一方では新しい多摩の発展を夢見ていた面もあって、結局開発の推進に動いていったのです。
 つまり成田のような反対運動はおこらなかったわけです。もちろん地主さんの中には、強硬に売り渡しを拒んでいる人もいるにはいました。しかし全体の空気としては反対運動を繰り広げるという状態にまでには至りませんでした。それは賛成し、推進している人たちの事情を理解できたからでした。
 また推進する側の人々も積極的な推進ではなく、大勢の成り行きを見守ろうという姿勢で、仕方なく売り渡しを承知するという事であったのです。強硬な反対も出来ず、土地売り渡しを承諾し、開発賛成となったその背景には、幾つかの理由があったように思われます。
 次に約三千ヘクタールにも及ぶ多摩ニュータウン区域の丘陵地帯に、代々農業を営み生活をしてきた人々が、この世紀の一大開発事業を受け入れるに至る経緯をたどることにしたい。
 それは八王子を中心とする多摩丘陵一帯に古くから営まれていた養蚕と生糸の生産が壊滅したことから始まったと言えます。
 戦後間もない昭和二十一年頃から、農家の生活の基盤となっていた養蚕がナイロンやビニールなどの石油製品に押され壊滅状態になっていたことから、何とか養蚕に代わる産業は見い出せないものかと真剣に考えはじめていました。
 ここ多摩ニュータウン地区は都心に近く、交通も発達してきていることから、都市近郊農業への道も決して夢ではなく、新しい生鮮野菜の産地としても、市場に売り込むことが出来るのではないかと、「青果物出荷組合」を作り、新宿市場に定期的に出荷を始めていました。
 昭和二十年代から三十年代の始めにかけて、都心に住む人たちのための野菜づくりは農家の経済に大きな役割をはたしてきたのです。

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