JRや私鉄では昔の姿のまま動くよう整備された蒸気機関車が客車を牽き、人気を集めている。その勇姿が人の心を捕らえるのか。汽車の歌には、“今は山中~”の「汽車」をはじめ童謡にも軽快に走る汽車の歌が多い。昭和2年(1927年)に本居長世が発表した「汽車ポッポ」は急勾配に挑む蒸気機関車を描いた作品だ。「青い目の人形」「赤い靴」「七つの子」などの作曲で知られる本居が作詞も手がけたのが「汽車ポッポ」で、御殿場線をイメージしたものという。
昭和9年に丹那トンネルが開通するまでは東海道本線は国府津駅から今の御殿場線を通って沼津駅まで迂回して走っていた。国府津からも沼津からも一番高いところに位置する御殿場駅までは坂を上る勾配路線。特に国府津を発車した列車は「鉄道唱歌」にも歌われた山北から駿河小山駅間のトンネルと鉄橋の断続する急坂の区間を走る。このため多くの列車は山北駅で後部に後押しの補助機関車を連結して御殿場駅を目指した。猛煙を吹き上げ後押しする蒸気機関車の響きが本居の心に響いたのだろう。
この歌は人生にも置き換えられる。困難に遭遇しても家族や友人の協力という“蒸気機関車の後押し”があればきっと乗り越えられる。そう思うと蒸気機関車の出す煙は人の息遣いにも聞こえてくるようだ。 100201号掲載
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唱歌のことば今ここに 「汽車ポッポ」
唱歌のことば今ここに 「ひのまる」
かつては、どこの家でも元旦から始まる祝日を“旗日”と呼び、門前には日の丸の旗を立てて、国旗は身近な存在で愛着を持っていた。
唱歌「ひのまる」は、「春が来た」「春の小川」「故郷」などを手がけた作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一による作品。明治44年(1911年)尋常小学校一学年の唱歌として登場した。今も一部の歌詞を改訂して一年生の教科書に載っている。
純白の地に赤い太陽をかたどった、世界で一番簡素な国旗が日の丸。敗戦による連合軍の占領下で一時は使用禁止とされたが、連合総司令官マッカーサーは日本の復興と尊厳を思ったのだろう、占領中の昭和24年元旦に日本の無制限使用許可を発表した。
実は、日の丸の法制化に関しては昭和6年3月に国旗法案が衆議院を通ったが、会期末と解散のために放置され、しばらく国旗・国歌は法律として規定されず慣習として扱われていた。平成11年になって、国旗・国歌法が制定された。
旗の起源を遡ると、源平時代に源氏が白地に赤、平家が赤地に白の旗を掲げたことに始まる。それがやがて日の丸にまとまり、信長・信玄・家康たちもシンボルに使ったという説もある。
もともと日の丸は日本人の心の美しさ、清らかさ、誇りを表す象徴であった。そして、今も日の丸は「うつくしい」国家のシンボルだ。
100101号掲載
唱歌のことば今ここに 「赤い靴」
大正10年に「青い眼の人形」を発表した野口雨情と本居長世の作詞・作曲家コンビは、翌11年(1922年)名作「赤い靴」を完成させた。
雨情にはこの作詞を駆り立てられる動機があった。
かつて雨情が北海道の新聞社にいた時、そこで同僚の身の上話を聞いた。同僚は北海道で開拓に従事したが失敗し、その後新聞社で勤務していた。3歳の娘(岩崎きみちゃん)のいる妻とは再婚だが、開拓者の生活は苦しく、結婚にあたって2人は娘をアメリカ人の宣教師夫妻に養女として託したという。
“異人さんに連れられて行く赤い靴の女の子”というのは実在の子供の話だった。この話を聞いた直後、雨情自身も生後7日の娘を失うという悲劇に見舞われる。
娘を手放した夫妻は子供がアメリカに行ったと信じていた。しかし現実には宣教師がアメリカに帰るとき、娘は結核を患い同行できなかった。宣教師とも別れ東京・麻布にあった教会の孤児院で闘病後、9歳で寂しく生涯を閉じた。母親はわが子がアメリカで幸せに暮らしていると信じたまま生涯を終えた。
「赤い靴」は遠くに離れていった女の子を思う歌。横浜の山下公園には海の方向を見ている女の子のブロンズ像が建っている。
この歌からは昭和52年11月15日、北朝鮮に拉致された当時13歳の横田めぐみさんを連想する人もいるだろう。しかし、めぐみさんは今も異国できっと、父母と故郷を思いながら暮らしているに違いない。 091201号掲載
唱歌
作詞・野口雨情、作曲・本居長世による「青い眼の人形」は大正10年(1921年)に発表された。
アメリカで、画家オニールが1903年キューピッドをモチーフにしたイラストを雑誌「COSMOPOLITAN」に発表。その原画をもとに9年後の1912年(大正3年)にはセルロイドのキューピー人形が誕生した。日本に渡来したのは大正4年頃という。軽くて愛嬌のあるキューピー人形は日本で大きな人気を博した。野口雨情の三女もキューピー人形を可愛がり、それがこの曲の作詞を促したという説もある。
キューピー人気は商業的にも多方面に広がった。
『キユーピー㈱』の創業者中島董一郎氏が舶来のキューピーに注目し、大正14年3月に日本で初めてキューピーをキャラクターにした「キユーピーマヨネーズ」を登場させたことでもわかる。日本でマヨネーズが一般化する原点はキューピーの登場だったのだ。
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一方、親善大使の役を果たした “青い目の人形”もいた。
昭和2年、険悪化しつつある日米関係を解きほぐそうと、親日家の牧師ギューリック博士の考えで実業家渋沢栄一氏を通し、平和の親善大使としてアメリカの小学生たちから1万3000体もの人形が贈られ日本各地の小学校にやって来た。人形はセルロイドではなく陶器製で、皆手作りの洋服を着て本物そっくりのパスポートを持っていた。アメリカの子どもたちの友情と好意に応えようと、日本からも多くの日本人形(市松人形)が海を渡ったという。
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八王子市立第八小学校(石川町)には昭和2年にやってきた人形が今も健在だ。戦時中には廃棄されたり、空襲で失われたりし、難を逃れて現存するのは全国で300体に満たない。
同校では当時在校していた卒業生の記憶をヒントに、昭和53年、古い倉庫にあった木箱から身長45センチ、髪はブロンドで黄色いドレスを着た青い目の人形(写真)が発見された。木箱の中にはアメリカの小学生の手紙なども入っており、手紙にはニュージャージー州のフレンズ小学校からの贈り物とある。第八小の児童たちは人形を「メアリー」と名付けた。
「メアリー」はいま校長室のケースに飾られている。横に寝かせるとゆっくり目を閉じる。毎年4年生は総合学習の時間に自校の歴史の中でメアリーの話を学び、6年生は写生して卒業式に展示するという。
青い目をした人形は戦争という人間の暗い歴史と同時に、人間の優しい心を伝えているかのようだ。091101号掲載
唱歌のことば今ここに 「故郷の廃家」
「故郷の廃家」は明治40年(1907年)「旅愁」と共に中等教育唱歌として採用された。犬童球溪作詞のこれらの歌は広く親しまれ、昭和40年頃まで教科書に登場したという。
当時の唱歌にはスコットランドやアメリカの楽曲が導入され、「故郷の廃家」も米国・ケンタッキー州出身の作曲家・ヘイズの原曲に犬童球溪が作詞し、明治時代屈指の名曲といわれた。教育者で作詞家の犬童は熊本県人吉市の出身。師範学校から東京音楽大学(現東京芸大)を卒業し、兵庫県で中学教師を経て新潟高等女学校に赴任した。「旅愁」と「故郷の廃家」は、ここから遥かな故郷に思いを馳せた詞といわれる。
『故郷』とは何だろう。都会育ちには、故郷がある人が羨ましいという。自然の風景なのか、人なのか。懐かしい人が去ってしまっても山や川は変わらぬ姿で迎えてくれるが、やはりそこに人がいないのは寂しいもの。青く高い空、聳え立つ山、澄んだ空気…。
ふるさとは遠きにありて思うもの。そして悲しく歌うもの(室生犀星)。 091001号掲載
唱歌のことば今ここに 文部省唱歌「月」
唱歌「月」は、1910年(明治43年)尋常小学校1年生の文部省唱歌として発表された。
昭和20年代までと長く歌われたが、時代によって漢字を多用した時期とカタカナ主体の時期があった。
月といえば、秋の十五夜。ススキを飾り、芋や梨、ぶどうなど秋の収穫物と、お団子を供える風習が今も各地に残る。旧暦8月15日の満月。国立天文台によれば今年の旧暦8月15日は10月3日、この日に「中秋の名月」を迎える。
平安時代前期に書かれて日本最古の物語とされる「竹取物語」では8月15日にかぐや姫が月へと帰って行く。西洋には満月の夜に血が騒ぐオオカミ男の伝説もある。
1969年、アメリカのアポロ11号が月に着陸し、2人の宇宙飛行士が人類として初めて月に降り立ってから、月に対して抱くイメージが変わった。その後、アポロ計画の月面着陸は6回を数えた。
今や、月での居住施設を含む基地建設の材料として月の砂などの研究も世界中で進んでいると聞く。また先ごろは、宇宙に長期滞在し、無事帰還した若田さんの話もある…しかし反面、失業率の高さや生活保護受給者の増加など、いろいろと大変な時代だ。せめて「中秋の名月」を楽しむ心のゆとりを持ちたいものだ。 090901号掲載
唱歌のことば今ここに 文部省唱歌「鳩」
唱歌「鳩」は、明治44年(1911年)尋常小学校唱歌1年生の教科書に登場した。タイトルが「ハトポッポ」となる時もあったが、昭和22年(1947年)まで連続して教科書に採用された唱歌の定番だ。
かつてハトは神社やお寺のお堂の軒先など高い所にいてあまり地面を歩かなかった。子供等が縁台で売っている小皿の豆を撒くと降りて来てついばんでいた。
この歌はハトと人間が良い関係であった時代、はるか遠くの地点から巣を目指す伝書鳩も活躍していた時代だ。
古くは飛鳥時代に渡来し伝書鳩として活用されるのは江戸時代になってから。京阪神地方で商業用の連絡に使われていたこともあるが、それも電話等の普及で遠い昔のこと。
いま、この地域では電車の駅やバス停近くに、トバト(カワラバト)が群れて公害となっている。開発により棲家の森林を壊した人間が悪いという人もいる。トバトの原種はヨーロッパや東南アジアなどの崖に住むハト。マンションや駅など、雨を防ぐ崖のような高所が沢山できたのが人間の近くに群棲する理由という説がある。
一方、ハトには「多摩市の鳥」のヤマバト(キジバト)がいる。羽根に金色にも見えるウロコ状の模様があり、1~2羽を団地の斜面などで見た方も多いだろう。このハトはあまり人前に現れないようだ。
白いハトは平和の象徴。人とハトが共存して、歌詞のように微笑ましい関係を作っていけたらと思う。 090801号掲載
唱歌のことば今ここに 文部省唱歌「菩提樹」
この歌は明治42年に発表され、以来およそ百年もの間歌い継がれてきた。
シューベルトの歌曲「冬の旅」第5曲。作詞はドイツの詩人ミュラーで、その原詩を損なわずに表現したとして近藤朔風の訳詞が定着した。彼は「ローレライ」「野なかの薔薇」「シューベルトの子守歌」などの名訳で知られる。
失恋した若者の、甘く切ない思い出、社会からの疎外感、死の誘惑、ざわめく胸の内、といった難解で普遍的な人の心の中の“原風景”を表現している。
この詩に登場する「菩提樹(リンデンバウム)」は、シナノキ科の落葉高木で30メートルにもなるという。ドイツでは日本の桜のような存在で、街路樹や記念樹として親しまれている木。葉はハート形で、初夏に小さいが甘く香る花を咲かせる。
ちなみに「菩提樹(リンデンバウム)」は “愛と煩悩の象徴の木”だが、釈迦がその木の下で悟りを開いたというクワ科の「菩提樹(インドボダイジュ)」は、いわば“仏教の解脱の象徴の木”。全くの別ものだ。
どちらにしても今の時代、大木(菩提樹)の傍らで物想いに浸る若者が果たしているかどうかは不明だ。 090701号掲載
唱歌のことば今ここに 「村の鍛冶屋」
唱歌「村の鍛冶屋」は大正元年(1912年)、尋常小学校4年生の歌として発表された。文部省唱歌のため作詞・作曲は不詳だが唱歌の中でもリズミカルで元気のいい歌として長く全国の小学校で愛唱された。
歌詞は当初4番まであったが戦時下の昭和17年、平和を歌う3、4番の歌詞が教科書から削除された。
さらに戦後には歌詞が難しいとして「いっこく者」は「働き者」に、「鐵より堅い」腕は「永年鍛えた」に、「刃物」は「打ち出す鋤鍬」に変えられた。昔の歌詞を知る方には、鍛冶屋を誇りとし勤勉に日々の労働に没頭している、という感がやや失われたように思われるかも知れない。
しかし農業や林業の機械化につれて道具の需要が激減したため鍛冶屋が姿を消していった昭和50年代、槌音を立てて働く光景が児童には想像しがたい、として残念ながら音楽教科書から次第に消えていった(ここでは戦後の歌詞を掲載)。
この地域にもかつては稲城の長沼や坂浜に、多摩は落合や乞田に鍛冶屋があった。日野の三沢には10年ほど前まで露木鍛冶屋があり、近隣では最後まで続いた鍛冶屋さんだった。
※走る「湯玉」(1番)…水で濡らした槌で赤く焼けた鉄を叩く時に、湯が小さな玉になって走り回る様子 090601号掲載
唱歌のことば今ここに 「青葉の笛」
「青葉の笛」は小学校唱歌とされていたが、実際には明治43年(1910年)に女学校の教科書に登場したという。作詞は2番まであるが、源平合戦で敗れる平敦盛を詠っている1番がよく知られる。
時は平安末期、都を追われた平家は、現在の神戸市須磨に陣を構えた。背後は一の谷の急傾斜で険しい山、正面には海が迫る。夜ごとに平家の陣中からは笛の音が流れ、源氏の武者も耳を傾け聞き入っていたという。しかし戦いは続き、源義経はあろうことか平家の〝不落の陣〟を山上から騎馬で急襲した。敗走し、海に逃れるしかなかった平家軍。一騎で源氏の先頭を切るのは猛将熊谷直実。彼は海岸を逃げる平家軍から反転して来る一騎の武将と戦うことになる。見れば相手は自分の子と同じくらいの年の少年だった。直実は名を尋ねて逃がそうとする。が、しかし少年は名も告げず、逃げようともしない。問答中にも追っ手が近づき、止む無く少年を討った。直実は後に、その少年が平清盛の甥の平敦盛で笛の名手であったと知る。青葉の笛の物語は、白砂青松の須磨海岸で起こった。
源平の合戦が終わってから直実は出家し武士を捨てた。敦盛の菩提を長く弔っていた史実が残っている。
「青葉の笛」は武人であるがための無常感が心を打つ歌だ。なお、敦盛の最期は木々の青葉が眩しくなる少し前の3月20日。 090501号掲載
唱歌のことば今ここに 「靴が鳴る」
「靴が鳴る」は大正8年(1919年)、詩が少女雑誌「少女号」11月号に発表された。
作詞の清水かつら(清水桂)は当時21歳、本郷に住み、勤務先の出版社で「少女号」を担当していた。義母の実家が、今の埼玉県和光市にあるため清水はしばしばここを訪れ、近くの白子川の岸を散策しながら、小学生時代の、野原を歩く遠足の楽しかった思い出を綴った。それが「靴が鳴る」。そして、雑誌掲載より前にこの詞を見た27歳の作曲家弘田龍太郎は作曲を年内に完成させた。
清水作詞・弘田作曲は「雀の学校」や「叱られて」などでも知られるが、中でも「靴が鳴る」は若い二人によって作られた名作だろう。小学校の教科書にも登場している。清水は生前、「たくさんの童謡に囲まれた日本の子どもは幸せだ」と言っていたそうだ。
大正8年といえば、子ども達はまだ着物と細紐の帯が普通の時代。洋服に靴で野原を歩くのは心が弾んだに違いない。また、雪国の子らは長い冬を防寒具で過ごし、雪が消えてやっと見えた地面を靴を履いて歩けるのは待ちに待った春を実感する時だ。
この地域でも野原は少なくなったが、せめて公園や校庭で元気いっぱい遊んでほしい。 090401号掲載
唱歌のことば今ここに「七つの子」
「七つの子」は童謡の代表的作家、野口雨情と本居長世の共作と言われる。大正10年(1921年)童話雑誌「金の船」に歌詞と楽譜が同時に発表された。
童謡「夕焼け小焼け」にも〝♪カラスと一緒に帰りましょ~♪〟と歌われているように、カラスはどこにもいて子供たちにも身近な鳥だった。 また「七つの子」とは七歳の子トリか七羽の子トリかの見解が対立しているが、作詞の野口雨情は七羽の子トリと考えていたようだ。
唱歌「七つの子」が最も知られるようになったのは、昭和29年(1954年)に映画「二十四の瞳」(壺井栄原作、木下恵介監督)にkm、登場してからだった。映画の舞台は瀬戸内海の小豆島。貧しく、戦争に翻弄された時代の12人の子供たちと高峰秀子扮する小学校の先生との交流を描いたもの。ここで主題歌として歌われた「七つの子」は人々の涙を誘うものだった。
カラスは、今ではゴミ袋を食い散らかす厄介者となっているが、もともと利口な鳥なので、人の周りから餌が得られないとなれば昔のように他を探し、人間と上手く棲み分けられるようになるかもしれない。しかし子育て中のカラスには近づかない方が良い。
そういえば、カラスが飛ぶ夕暮れの空を見上げたのはいつのことだろう。 090301号掲載
