4月には市長選が行われるということもあるが、最近の多摩市の現状を見てみると市民の政治不信が高まってきている。
市議会は市長提出の予算案を否決したり、決算を不認定するなどと政局の不安が続いているのだ。
既に議会の会派や政党は液状化現象を起こしてしまっているので、これらの問題に的確な対応が出来ないでいる。自由民主会派も4議席となり、民主も2議席で党が政治とカネの問題で苦境に立たされている。その他の会派、政党も過半数に達せず、もはやこのような政党の上に基盤を置くことの出来ない状況になっている。当面する市長選に当っても、政党が主導権を以って候補を擁立することが出来なくなっている。
また地域組織や人々の価値観にも金属疲労が起きている。
戦後教育に於いて、個人が尊重されるようになったからだろうか、規律のない社会や街が作られるようになってきたようだ。極端に個人のみが尊重されると、人は刹那的な喜びに走ったり、周囲に対し不信感や猜疑心を持つようになり、犯罪が多発する社会が出現することがあるという。
新しい多摩の街は生活をしていく上で至れり尽くせりの街が出来たものの将来に希望が持てないという声も聞こえる。将に政治不在の街になろうとしている。
今最も深刻な問題となっているのが少子化の問題である。人口が減り続ける街に発展は望むべくもなく、政府は子供手当を支給することを決めたがどれだけの効果を出せるのか。このまま人口の減少が続くとすれば日本の人口は、3500年には一人しか存在しないという予測がある。少子化の問題は考えれば考えるほど深刻な問題である。
子どもを産まない夫婦にその理由を聞くと、少数だが「子どもを産むと自分たちの使うお金が減り楽しむ時間が少なくなる」という。しかし子どものいない夫婦で圧倒的に多いのは「将来が不安で…」という理由。
子育ての支援を得られるなら、仕事をやめず、安心して子を産み、楽しんで子育てできる人はきっと多いはず。行政は子育てを支援する体制を充実させてほしい。子どもが産まれなくなった街はやがて消えていく。そんな街にしないためにも地域政治を考えよう。 100201号掲載
‘筆舌’ カテゴリーのアーカイブ
筆舌 地域政治の季節を迎えて 横倉舜三
筆舌 多摩に真の政治を取り戻そう 横倉舜三
来春4月11日には多摩市長選と議員の補欠選挙が行われる。首長は行政の責任者ではあるが、地域を代表する政治家でもある。この街に住民が将来に亘って安心して暮らせる希望のある街にしていくために、この選挙は極めて重要な選挙である。ところが住民は醒めてしまっていてそれほど関心を示してはいない。
その原因は、市の行政や議会の現状など近隣都市間で市の置かれている立場や将来構想等の正確な情報が住民の耳に伝わってこないということにあるようだ。情報が入ってこなければ判断のしようもない、市民は醒めてしまう。
市議など地域の政治家が地域の住民に対し、自分の思いをこめて口頭で現状を訴え、報告する機会が少なくなってきているため、住民は確かな実情を知ることが出来なくなっているものと思う。同時に地域に根ざした組織もその機能を果たさなくなってきている。
議員などは日頃から再選を目指して議会での一般質問や議会報告のチラシ、後援会だよりなどで訴えてはいるものの、住民はそれほど反応を示していない。
多摩市の場合は正確な情報が伝わってこないという実情がある。例えば9月市議会で20年度一般会計決算を認定しなかったことについても、何が悪くて問題だったのか、不正な点があったのか明らかにされていない。また10月2日、二人制2人目の副市長が突然、それも任期半ばにして退任したこともである。二人制を採用した市長の最大のブレーンがいなくなるという事態は、何か理由はあると思うが明らかにされていない。他にも明らかにされていないことがあるのではないか。
今多摩に求められているのは人材である。多摩ニュータウンは人材の宝庫といわれているが、どうやってこの街に必要な人材を探し出すのか、その方法が今問われているのではないだろうか。
このように多摩市にとって将来を決める最も重要な時期を迎えているということが言える。まさに多摩市は政治の転換点にきている。この時に議員や政治に携わる人の中に選挙の旗振り役を務めるものがいないのを残念に思っている。
政治を無くした街に、真の政治を取り戻そう 091201号掲載
筆舌 市長や議員の任命権者は選挙民 横倉舜三
先般行なわれた衆議院選挙は様々な角度から政局を見ることが出来た。
民主主義の原則として国民が選んだ政権だから失敗したら交代させることも出来るということを改めて教えてくれたものと思う。
日本経済はほぼゼロ成長で膨大な財政赤字を抱えることになった。少子高齢化は進み、年金は破綻状態に近づいている。
地方行政でも同じようなことがいえる。
このところ林の中で小鳥がけたたましく鳴いている姿を思い出す。子育て中の巣を狙って蛇が近づき数羽の雛に危険が迫っているからで他の鳥に助けを求めているのである。
最近多摩の市政について多くの方々から、将来を思う切実な声が寄せられている。長引く不況で多摩市から撤退していく企業がいくつかある中、国の内外から人々の集る数少ない観光スポットサンリオの進退をめぐる問題をはじめとして、進出企業の苦戦も伝えられている。
地域の一企業と捉えず、地域の財産として、皆で盛り立てていけないものだろうか。折角多摩ニュータウンという大開発を受け入れ、改革を試みたものの住民の高齢化は進み無秩序な開発に後戻りをしてしまっているようで、なかなかこの街の展望は開けてこない。住民は未来への希望を失いかけているのだ。何とかしなければならないという切実な思いが広まっている。
多摩をエリアとする小さな地域紙も「けたたましく」声を挙げざるを得ないという状況に直面している。
住民はジタンダ踏んでいる。地域政治家の活動する舞台がこれ程恵まれた環境は他に例を見ないだろう。先ず多摩の政治家といわれる人達が政治家としての本領を忘れてしまっていることである。本領とは、市の「将来あるべき姿」を明確に示し、住民が目指す自立都市への取り組みなど、市の基本構想を忠実に進めると共に、市民の意見を聞き、自分の考えも述べ、実行に移すのが政治家である。政治家が本領を発揮すればおのずと職員もやる気を出してくる。
来年は市長選も行なわれる。市長のリーダーシップは多摩の未来を大きく左右するので、重大な選挙である。選挙民もその任命権者となるのでその責任を負うことになるのだ。 091001号掲載
筆舌 横倉舜三 コミュニティは地域のしきたりを守ることから始まる
終戦の日はこの地方のお盆でもある。久しぶりに盆棚の前で孫たちに先祖を語り、昔を思い、現代に生きる手懸りを探ろうとした。
自分たちの先祖がどこからやってきて、何時からここに住みついたのか、などの話から始めて、人々は西の山を越えてやってきたとも、東から川伝いに登ってきたとも、そして「むら」の歴史は四百年とも六百年ともいわれる。その確かさは分からないが人々がそこに住みつき暮らしの営みが始まりそれが続いてきて、いまここに「むら」があり街がある。人々がそこに生きていると言うことは確かなことである。くらしの営みは、人々が生き続けるための努力であった。
この地にたどり着いた人々は生き続けるための唯一の場所となったのです。その場所で人々は生き続けるために、山野を耕した、種を播いた、草を取り手入れをして穫り入れをした、木を切り柱を建てた、屋根を葺いた、水路も作った、子供を育て、墓も作った。自分が暮らすための営みは全て自分でやらなければならなかった。この営みを続けていくためには「むら」を守らなければならなかった。「むら」を守るためには人々が力を寄せ集めて対応することが、自分たちが生き続けるための唯一の道でもあった。
そこには命を懸けてでも守らなければならない習わし、しきたり、おきてなどがつくられ受け継がれてきた。これらの「おきて」などはニュータウンの開発によって全て無用の物となり消えていってしまった。
しかし、新しい時代にも「習わし」が必要なのかどうか、問われなければならないだろう。
とにかく大災害などが発生した時、助け合いや地域の復興に役割を果たすのは地域コミュニティがいかに充実しているかにかかっている。地域の昔の「習わしやおきて」などはどのようなものであったかを考えてみると、1.木はやたらに切ってはならない。2.決められた場所以外の草を刈ってはならない。3.谷川の水は汚してはならない。4.凶作に備え食料を蓄えておかなければならない。5.食べものは粗末にしてはならない、一粒のお米でも天地の恵と感謝していただく。6.特定の森や沼などには一人で近づかない、などであろう。 090901号掲載
筆舌 「都議候補は実績を訴え未来を語れ」 横倉舜三
7月12日には都議選の投票が行われる。
昭和50年代の前半頃までは、多摩市や稲城市からは都議候補を出せない状況にあったが、日野選挙区から分離された当時の南多摩選挙区は関心も高く盛り上がりをみせた。選挙民の支持を得て当選した都議もその期待に応えるべく数々の政治的業績を残してきた。公共施設などの誘致に積極的な活躍がみられた。もちろん多摩ニュータウン開発の真っ只中という条件に恵まれていたということもあったが。
今回の南多摩選挙区での立候補予定者の顔ぶれを見ても、現職・新人とも市民のためにどれだけの仕事をしてきたのか、あまり印象に残っていない。
多摩ニュータウンは、都や公団により公的開発が進められ、至れり尽くせりの街づくりのためか、地域議員の政治的活動の場が失われてきたように思われる。地域政治家としての都議候補は地域住民のために何をしようとしているのか、地域政治をどう進めようとしているのか、そのことを具体的に強く訴えてほしい。それが有権者の投票行動に結びつけることになるのだから。それが選挙“戦”でもある。
いま、多摩のまちづくりは政治のない街になっているよう思われてならない。
特に、多摩ニュータウン開発の開発利益を得たのは地域住民ではなく、多摩市や公団の職員給与額を日本一に引き上げたことである。
計画的な街づくりとして知られるニュータウン開発も、未利用地の処分については、ところ構わずマンションが建てられており、そのマンションにも緑地部分をなくして道路境界線までギリギリに建築されているなど無計画さが目立つ。
また、最近サンリオピューロランドの前の用地に高層ビルが建った。サンリオには国内外から子供たちが大型バスで訪れる。小山田地区などにも駐車場を確保しているが、多摩市は多摩センター活性化のため「キティにあえる街」として力を入れていることから、施設前の用地はサンリオが使用できるよう配慮できなかったのだろうか。建物全体を背景に記念撮影も出来なくなってしまった。数少ない名所も陰が薄くなった。
未来に希望の持てるよう都議選を見つめよう。 090701号掲載
筆舌 組み替え予算にゆれる多摩市政 横倉舜三
多摩市は3月13日の市議会定例会の予算特別委員会において予算の組み替え動議が提出され、その動議が賛成多数で可決された。
この事態に対し渡辺市長は、議会に提出していた21年度一般会計予算案を撤回した。
再提出された組み替え予算案は、3月27日直ちに予算特別委員会に掛けられ審議し野党3会派が修正案を提出して抵抗した。採決の結果は可否同数となり、委員長採決によって野党修正案が可決された。30日の本会議でも同様の結果となることが予想され、予算案が否決ということにでもなれば渡辺市政の命取りにもなりかねない。
動議を提出した3会派や野党の動向を事前に読み取ることは出来なかったのか、則近たちは何をしていたのか、与党会派も何の対応も出来なかった、というところに問題がある。
この組み替え動議の内容は市民の暮らしに直結する、福祉や教育関係予算の約一億円の削減や自己負担増を行なうとしている。いまの経済危機が高齢者や障害者、母子家庭など低所得層に深刻な影響を及ぼしている中、予算の削減や自己負担増は家計を救うことにはならないとして予算の組み替えを要望している。
また原峰緑地や中沢池公園隣地の買収予算の削減などで、住民が真にしかも緊急に必要としていることなのかどうかを問うている。数年前にもサンピア多摩の入口付近や鶴牧西公園、馬引沢、聖ヶ丘などの法面をURから購入し(この地域では法面は法面の上の所有者のものと考えられている)、その固定資産税を市が持つことになり、法面を含めた土地の所有者との間に不公平感が起きている。
市が用地を取得する場合その用途と必要性と管理が充分出来るというメドがあって初めて用地取得の意義があるものと思う。
とにかく2年連続して予算が議会で修正されるという事態を正常の市政ということはできない。
市長の政策執行を議会が否定したことになり市長不信任ということになる。市長は議会を解散するか自らも責任をどう取るかを迫られるという状況にある。
この状況は単に議会や市長の問題を超えて市民有権者の政治問題として考えなければならない時が来たようである。 090401号掲載
筆舌~明日の多摩を考える③~未来へ問題を抱えたままの街 横倉舜三
新しい都市は出来たけれど、何か物足りないものを感じる。それは街を作った人や責任者がこの街に住んで居なかったり、街を作ってきた当時のいきさつなどを説明する人が少なくなっているからかもしれない。小さい時からの友達や知人が近くにいないなどからこの街に住んでも本当の街を理解できずにいる人々が少なくないのではないか。
過去の農村社会のコミュニティ組織は完全に陰を潜めてしまっているが、既存の地域には伝統ある神社、仏閣などがあり、今も祭りが行なわれている。ところがいまだにこの氏子や檀家には入りにくく、それが地域になじみにくい原因ともなっている。結局は住民共通の拠り所がない。
この街に物足りなさを感じる、いま一つの理由は新しい街の未来に向かって新しい希望を強力に進めるリーダーを求めているということにもなるのではないだろうか。
そのリーダーは、金や個人的な思惑で地方政治の権力の座を得ようとする人ではなく、真に多摩を愛し地域に精通し、多摩の未来に対しても愛情を持っている人であって欲しいと思う。
このような理想的なリーダーを市民は選び出すことが出来るのかどうかが今後の大きな課題でもある。
それは長い時間と多くの人々の知恵と忍耐と努力が積み重なって実現するものだと思う。そのためのシステム(仕組み)作りから始めなければならない。
明治、大正にかけて由木村には八王子と横浜を結ぶ橋渡し的な鑓水商人が誕生して一躍地域経済のリーダーとなっていった。
そのリーダーたちは次のステップである南津鉄道の建設に乗り出すことになったが、ときあたかも昭和初期の経済恐慌に遭遇し発起人や株主として事業推進に貢献した人達は自分の私財を投げ打つ結果になってしまい、由木村は個人資産とともに多くのリーダー的人材をなくしてしまったのである。
また戦後は旧来の人脈も一新され、南多摩広域自治圏構想へと変わって。八王子市に合併して由木村はこの時点でも人心を一変させた。
さらにニュータウン開発によって多くの入居者を得たものの、今度は人材の発掘が困難になってしまった。 090301号掲載
明日の多摩を考える② 広域自治圏をめざす南多摩東部5町村 横倉舜三
昭和33年、いち早く七生村が日野市合併に踏み切った。
このことにより、由木村のリーダーたちは焦りを感じ始めていた。当時、東京都は由木村と多摩村との合併を提案していたのだ。しかしこれと言った取り得のない貧乏村同士が合併しても発展する可能性やメリットもないとして、東部5カ村の合併を前提に、とりあえず由木村は日野町との合併を先行すべきであるとのことから運動を進めていたのである。ところが一方で由木西部地区の石井栄治村長を中心とする八王子合併派との間で村議会の採決を巡って双方の村民を巻き込んだ大論争となり、警察官300人を出動させるという由木村始まって以来の分村さえも辞さない、という地域の運命を賭けた大騒動となってしまった。
こうして各村のリーダーたちはそれぞれ自分の村の将来を賭けた戦いを繰り広げている間に、多摩村ではゴルフ場の誘致が進み、一方では多摩ニュータウンの開発という都市開発が進められ、それによって一大住宅都市の出現となった。
ところで多摩ニュータウンは国策に基づいて開発されてきたにも関わらず、その街づくりに対する未来への提言や建設理念、目標といったことについては何も示されないまま何時の時点で完成した、ということも示されず、施工者は名前を変え、撤退してしまった。
実際のところこの時点では、まだこの開発によって南多摩広域自治圏の確立が達成されるのではないかと期待をもっていた。
たとえば由木村の岩下一蔵議長などが訴えていた地方政治の理念は南多摩地域を、八王子を中心とする一つの自治圏、町田を中心とする一つの自治圏、そして東部5カ村が合併して新しく自立体制を整える、という三つの自治圏を確立することであった。
結果、4市にまたがる生活圏を一つにした新しい都市が出現したにも関わらず行政区域は旧来のままで、先人の思いは活かされてはこなかったのである。
それでも開発途上には、たびたびニュータウンサミットなどと称して地域内共通の問題が話し合われていた、が今はそれすらも行われていない。鹿島や松が谷に住む人たちは市役所に行くには一時間もの時間がかかる。このような不合理な街が出来上ってしまった。 090201号掲載
筆舌 創刊40周年に向けて 明日の多摩を考える①
あけましておめでとうございます。本紙もお蔭様で今年創刊四十周年を迎えます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
これからの多摩ニュータウンを語る上で、開発当初この地域のリーダーたちは何を考えていたのだろうか、から探ってゆきたいと思います。
戦前の多摩丘陵の村々は養蚕が唯一の産業であって、それに伴う産業も多く、地域は安定していた。
ところが先の大戦と戦後の石油製品の登場によって、生糸は輸出が振るわず養蚕は壊滅し、生糸の生産も衰退していった。
その頃の地域のリーダーたちは、何とか養蚕に代わる産業はないものか、と試行錯誤を繰り返していた。このままでは従来の地域経済を維持していくことさえ困難になる、将来の発展の見込みが立たないとの思いだった。
多摩村や由木村は取り残されてしまうのではないか、という危機感を持つと同時に、焦りが見られるようになっていた。
ここで多摩や由木、稲城村の自然環境を記すまでもないが、稲城村の平地部分では、すでに梨の栽培に取り組んでおり、「多摩川梨」として知られるようになっていた。
多摩丘陵の狭い、猫の額ほどの谷間の田んぼや急斜面の畑、そんな環境の中で何が生み出せるのか。
そうした悩みや焦りの結果、多摩村では、燃料としての需要が少なくなった雑木林に、もう住宅地開発を受け入れてもいいのではないかということになった。駅(聖蹟桜ヶ丘)に最も近い場所(市役所の裏山に当たる現在の桜ヶ丘団地)を住宅地に開発してもらおうということになり、京王帝都電鉄に相談して、当時の村長杉田浦次氏や総務課長の長谷川惣一郎氏などが中心となって依頼をすることになり、高級住宅地として開発が進められることになった。
村をあげて協力体制を整え新しい街づくりの一歩を踏み出すことになった。
一方由木村では、昭和30年代前半に町村合併問題が起き、自治圏の帰趨をかけた戦いが繰り広げられていた。当時の岩下一蔵村議会議長は「南多摩東部五ケ町村」と呼ばれたた日野町、七生、多摩、由木、稲城村を大同合併し広域自治圏を確立する構想を主張し、その可能性を追求していた。 本紙社主 横倉舜三 090101号掲載
筆舌 「不況に対する生活防衛をどうするか」 横倉舜三
今年もあと一カ月を残すのみとなりました。
日頃は本紙の取材活動や広告掲載などに一方ならぬご指導ご協力を賜り厚く御礼申し上げます。
お蔭様で本紙も来年は創刊四十周年を迎えます。
このところ多くの企業は景気低迷のあおりを受けて厳しい経営環境に追い込まれています。この不況をどう乗り切るかが最大の関心事となってまいりました。この状況は来年に持ち越されようとしています。
各家庭にとっても子供の教育費や家賃、住宅ローンなど削る事の出来ないもの以外の食費や衣類、交際費、旅行交通費、自動車などの経費を切り詰めてしのごうとしている。当面生活に欠かせないものに絞り、財布の紐は締めざるを得ないという状況になっている。
このことは拡大を続けてきた消費生活をいま一度見直す好機でもあるような気がする。
政府は生活支援策として定額給付金の支給を決めた。その反面3年後には消費税の引き上げをしようとしているが、消費税をこれ以上引き上げれば消費は減退するだろう、そのことは景気を一層悪化させことになる。景気が悪くなれば自治体の税収も落ち込むことになり、住民の活力もなくすことになる。消費が回復すれば活気もでてくる。消費税より減税によって住民の所得を増やすことを考えてほしい。
消費が低迷する中で生活を豊かにするため、家計をあずかる主婦たちは、やりくりに知恵と工夫を凝らし始めている。今までの生活を見つめ直し、それぞれ生活防衛のために動き出している。
これに応えるのは行政や議会の対応である。聞くところによれば多摩市職員のずる休みが目立っているという。理由はどうあろうとも、もってのほかである。庶民の税金によって賄われていることを肝に銘じてほしい。
議会も改革を進めようとしているが、議員個々の改革と、地域政治家として地域の庶民の抱える問題点を吸い上げ改善策を講じるのが先であるように思う。新しい街は出来たものの新しい地域組織は作られていないことと、古い伝統ある組織は壊されたままである。
このような無気力社会の状況は、一旦ことあるときは無力となってしまう。 081201号掲載
筆舌 食料の自給率を高めるために 横倉舜三
いま、世界中で食べものが手に入らない人々が多くいる国がある。
人間は食べ物がなければ生きてはいけない。当たり前の話ではあるが、その食べものを求めて暴動が起きている国があるのだ。
食べものが不足している原因は幾つものことが考えられる。ガソリンなどの原油価格の高騰により小麦やトウモロコシが代替燃料として使われるようになったこと、食料を生産する農業従事者が減ってきていること、また地球温暖化現象により世界の各地で砂漠化が進んできていること、世界人口の増加など。
今、多くの国では食料の自給率を高めようという機運が高まりつつある。
日本の食料自給率は39%で、先進国ではあり得ない最低の水準である。米国や中国からの輸入に頼っているのが現状である。
7月に行なわれたG8北海道洞爺湖サミットでも、主要なテーマである地球環境問題に加えて、急遽食糧問題が議題に加えられた。
国際的な緊急課題として食料確保が挙げられるほど深刻な事態となっているにも拘らず、街のスーパーにはあふれるほどの食品が並び消費拡大を促している。今後はこのような輸入に頼る食料確保には限度が見えてくるのではないかと思う。自給率を高め、現状を改善していくためには国の農業政策の抜本的な見直しが必要になってくる。
私たちも身近な空き地などを積極的に活用するなどによって危機をきりぬける努力をすべきであろう。
私たちは何時の時代にも生き続けるために小さな土地でも耕し、自分が食べる物を少しでも確保するという努力と食べ物の有難味を知ることを心掛けてきた。
事態が深刻の度合いを深めてくれば広い緑地を持つゴルフ場や公園なども耕作の対象となってくるだろう。
そうなるまでもなくニュータウン開発によって尾根幹線道が計画されて広い中央分離帯には雑草が茂って空き地となっている部分など何も利用していないのは本当にもったいないことだと思う。
40年もの間、空き地となっていたが、そこに大豆や小麦、そばなどを作っていたのなら何人分かの食料確保に役立っていたことになる。
それは地域の人たちによってのみ達成されるのだ。 080901号掲載
筆舌 新しいまちづくり後悔先に立たず(1) 横倉舜三
“多摩ニュータウン開発”の原点とも言うべき用地の確保に係わってきて以来40年の歳月が流れようとしております。振り返ってみると、開発の発端となった当初の住民の思いや希望は殆ど成就出来ていません。反省ばかり先に立ち、開発施行者や行政、そして地域政治家など。これまでも再三に渡って苦言を申し上げて参りましたが、改めて当初からの思いを伝えたいと思います。
そもそも、この大開発の発端は多摩丘陵一帯が桑畑に埋め尽くされており、養蚕という産業が各農家に根付いていたところに、戦後石油製品の登場により養蚕という一大産業は壊滅の憂き目を見ることになってしまい、それに代わる産業や職業を見い出すためのものとして、住民は新しいまちづくりを選択したのです。
それは安定的な豊かさを求めていたからです。その結果、信頼のおける公的開発施行者に用地を提供し、その活用を委ねたのです。
計画人口30万人の都市が造られるとあっては、そこからあらゆる産業や事業が成り立ってくるものと大きな期待と希望を持ったのです。だからこそ多くの地主さんたちの賛同と協力が得られたのです。
今考えてみると、このような地元の人々の思いと期待に果して応えることが出来ただろうか、用地の取りまとめに携わった者として元地権者に対し裏切りであったと受け取られても仕方がないとも思っています。
当時、私自身も新しく完成するだろう30万都市に大きな期待を寄せ、新たな事業展開で地域に先鞭をつけようと、桜ヶ丘地区や初期入居の諏訪・永山地区商店街に出店をしたものの、赤字続きで結果は倒産という運命をたどることになってしまいました。
ところがこのような状況になったのは私だけではなく、生活再建という措置により商店街に出店した多くの人たちも閉店、撤退を余儀なくされ、さらにそうした状況を見た地元の他の人たちも事業展開に対して期待と夢を失うことになってしまったのです。それは大手百貨店の「そごう」でさえも撤退するという事態になってしまいました。
生活再建で転向した人たちが今日まで継続できていたら事態と開発評価は大きく変わっていたであろうと思います。 080701号掲載
