Home > 【特集】多摩NT30年を検証

多摩ニュータウンタイムズについて
多摩ニュータウンの入居開始を控えた1969年、新しい街の地方紙(地方新聞)として創刊し、以来、多摩ニュータウン及びその周辺地域(多摩市、八王子市、稲城市)の皆様に最新ニュースや生活情報などを提供してまいりました。今日まで読者の方々をはじめ皆様からのご支援を頂き、おかげさまで創刊40周年を迎えました。 今後ともご愛読を賜りますようお願い申し上げます。 配布エリア:多摩ニュータウンの全域(多摩市、八王子市、稲城市)

【特集】多摩NT30年を検証 Archive

【29】開発の原点を見直し産学公民体制で未来を築こう

◆英国の田園都市との比較
 多摩ニュータウン(以下多摩NTと称する)の都市計画は、英国の田園都市構想に範をとったといわれている。英国の田園都市は20世紀になって爆発的に増加したロンドン市の人口緩和のために、ハワード(1850~1927)によって体系化され、1903年に最初の田園都市として実験的に開発されたレッチワース市によって始まった。
 ハワードは田園都市の条件として・計画的に造られる職住近接の自立都市・緑に囲まれた小規模都市・土地は公有、という三条件を挙げている。現在英国内には20数カ所の田園都市が所在するが、いずれも自己完結性を有し人口4~5万名の規模である。
 一方多摩NTは、東京の人口に対応し都市のスプロール化を防止するという開発目的は英国と同様であるが、現状は東京のベットタウンとしての位置付けに甘んじている。一つの例として多摩NT内における人口に対する雇用の割合は、レッチワース市が50%であるのに比して、多摩NTでは10%に満たない。即ち近代都市が必要とする「住む、憩う、学ぶ、働く」という四機能のうち、最後の働く場が無いのである。 多摩NTの問題点を総括すると、都市工学的には成功したが、人間工学的配慮に欠けた都市ということができよう。
◆多摩NTの将来展望
 現在の不透明、不確実の時代のなかで、我々住民はニュータウンの将来像を如何に描くべきか。「官主導から民主導へ」「中央から地方へ」「ハード重点からソフト指向へ」「ニュータウンからニューシティへ」等々、スローガンは多岐に渉る。
 多摩NTには再開発、再生の資源として高度の社会的インフラ(都市基盤)、三百㌶に及ぶ未利用地、知的財産の集積する多くの大学、高水準の知的レベルを有する住民など、居住環境の高さと相まって優れたリソースを有する近代都市である。
 要はこの優れた資源を如何に活用するか。それは産学公民(企業、大学、行政住民-NPO)の連携による総合力の結集に外ならない。例えば土地利用の四者共同開発や、ストックを使った再開発、秩序あるベットタウンとして近隣都市との連合化など、バランスのとれたコミュニティの形成を目指せば未来は明るい。
◆連載を終えるに際して
 平成13年10月1日号より始まったこの連載も、本号を以て一応終了することとなった。満2年29回に及ぶこのシリーズは、多摩NT開設以来、30年間の総括として企画され、遺跡発掘調査に始まり土地収用、旧地主さん達の土地への思い、未利用地問題、大学と地域との連携、尾根幹線開通、パルテノン多摩、バス交通、建替え問題など30年の歩みを検証してきた。
 多摩NTの当面する課題は山積しており、特にコミュニティの形成、伝統文化と地域文化、少子高齢化問題、広域行政への対処、環境対策、情報化社会への対応など、取り上げるべき課題は多い。
 このたび弊紙創刊35周年を1年後に控え、新たなキャンペーン企画に引き継ぐため、一応この企画を終了し他日を期したいと考えるものである。
 長期にわたり、ご愛読を賜り誠に有り難うございました。    (本吉記)

【28】“建替え”問題こそ・・・②ニュータウンの未来を決める

多摩ニュータウン当初の住宅(永山)◆団地の建替えに関する一事例
 築後30年を経過し老朽化したマンションは、全国で約27万戸と推定される。
 諏訪団地に先立ち1968年に入居を開始し、すでに35年を経過した千葉市稲毛海岸3丁目団地は、建替え問題のモデルとして最初のケースといえる。
 同団地は、敷地2万5千坪、4・5階建て、27棟768戸の大団地である。
 デベロッパーの提案に基づき、諏訪団地と同様「ゾーニング方式」を前提に、2〇〇〇年5月の住民総会に「建替え決議」を提案したが、当時の区分所有法の下では各棟の5分の4以上の賛成が得られず、計画は否決された。
 現在は当面の老朽化に対処するため、大修繕を行い、建替えの準備をすすめて次のチャンスを待つという現状にある。
◆法改正による周辺条件の整備
 10年後には築後30年以上のマンションが全国で100万戸と推定されるに及び、国もようやく重い腰を上げた。
 昨年マンション建替え円滑法が成立し、今年6月改正区分所有法(この改正案によれば、団地単位の建替えは全体の5分の4、棟ごとに3分の2以上の決議で可決される―前述の稲毛団地の事例では、現行法の下では可決されていた―)が施行されて、住民と事業者で構成する「建替え組合」が事業主体として運営できる様になった。
 また仮住宅の確保に関して国や自治体の協力を明記し、各種の補助金や高齢者向けの特別融資制度などの優遇措置が新設された。しかし補助金にしても、国の直接援助ではなく自治体が予算措置を講じなければ実効性はないなど、公的サポートはなお不十分である。
◆今後の見通しと課題
 前述した通り、諏訪2丁目の建替え問題は現在いまだ実現の目途は立っていない。
 全住民の92%以上の建替え賛成の住民意思を背景に、長年にわたり培った町づくりの実績や、12年に及ぶ建替え委員会の活動は法改正や各種の公的サポートを引き出した。しかし経済的不況に加え、マンションの供給過剰やデベロッパーの消極姿勢などの外部要因が隘路となっている。さらに内部的には、住民の高齢化、全員合意を前提に運営したものの個人のリフォーム要請の続出など、内部的にも問題は多い。
 建替え委員会代表の加藤輝雄氏も「団地単位の建替えは民間のみでは限界があるのではないか。行政を中心とした公的サポート無しでは実現は困難であり、今後とも行政の規制緩和を中心とした公的支援を望みたい」と語っている。
◆建替えはニュータウン全体の課題
 諏訪2丁目の建替えは、一団地の問題ではなくニュータウン全体の課題でありその成否は正にニュータウンの再生、未来に直結している。
 すでに建替えの時期にある団地も多く、諏訪2丁目の推移を注視しているといっても過言ではない。
 同組合に対する照会や見学も多数あり、多摩市もようやく東京都、都市基盤整備公団との三者協議を始めた。人口減のすすむ多摩市にとっては、行財政診断白書にも明らかな通り住民の減少は税収の減収に繋がる。
 公団についても、今後は分譲住宅部門より全面的に撤退し、都市開発に重点的に取り組む方針に変更したが、今後続出する公団の建設した分譲住宅の建替えは、再開発事業の一環として民間のみに委ねることなく、主体的に取り組むべき事業であり今後の推移を注視していきたい。
 (本吉 記)

【27】多摩ニュータウンの再生は“建替え”の問題に①―諏訪2丁目の取組から―

2-11.jpg◆序
 多摩ニュータウンには、解決を要する諸問題が山積しているが、今回取り上げる「建替え」問題も緊急を要する課題の一つである。
 1791年第1期の入居に始まり、すでに33年目を迎えた諏訪2丁目団地は1991年に建替え委員会を組織し、この問題に鋭意取り組んできた。
 昨年開催された多摩ニュータウン学会シンポジュウム「多摩ニュータウンの再生」において建替え委員会代表の加藤輝雄氏より、取組の現状と課題について発表が行われている。
 都内の築年数35年を経過したマンションは約4万戸と推定され、今後建替え問題がニュータウン全体の課題となることは避けられない。この問題解決のパイオニアともいうべき諏訪2丁目の事例をご紹介したい。
◆諏訪2丁目団地の概要
・入居開始 1971年3月・所在地 多摩市諏訪2丁目・敷地面積 6.4ha
・住宅の構造 壁式鉄筋コンクリート造5階建23棟戸数640戸 間取り3DK
・法規制等 1団地の住宅施設建ぺい率10%容積率50%・入居者数約1200名(開設当時約1800名)
◆現在に至る取組の推移
 建替えの機運は1988年に有志の会の発足に始まる。当初は子供の成長に従い、もっと広い住宅が欲しいとの要望が強かったが、その後検討委員会によるアンケートの実施、調査研究の後1991年総会決議により正式に建替え委員会が組織され現在に至っている。その間都市整備公団への調査およびコンサルの依頼、一団地住宅規制の緩和などの法制条件改善のため行政との折衝、開発デベロッパー募集など精力的な活動を展開しているが、残念ながら未だ実現の目途がたっていない。
◆背景と特徴・課題
 この団地の建替えに関する特徴は、従来のマンションの建替えが全て「等価交換方式」であったのに対して「ゾーニング方式」を採用する点にある。
 等価交換方式とは、1棟を単位に余裕のある建ぺい率、容積率を活用して戸数を増やし、剰余部分を転売して利益を挙げ従来の居住者の追加負担をカバーする方式である。2002年の建替え円滑化法の実施により、容積率は150%まで許容されるというプラス面もあるが、昨今の地価の下落、マンションの供給過剰によりこの方式は問題を孕んでいる。
 一方ゾーニング方式は、あくまでも1団地(数棟)をまとめて建替えるものであり「建替えゾーン」「土地売却ゾーン」「建替え見送りゾーン」に分け、多様化する住民の意思を尊重して各自の希望により選択可能とする方式である。
 この方式の背景にあるのは、この団地が開設以来30年にわたり正に無からスタートして現在の住環境を造り上げた住民の歴史である。管理組合の運営も外注によらず自営であり、全て手造りによるまちづくりを行ってきたといえる。
 現在の管理組合理事長小澤満寿雄氏は「この団地には、初期入居の方々をはじめ先輩各位の歴史と夢が満ちている。次の世代にもこのロマンを伝えるためにはゾーニング方式しか考えられなかった」と語っている。
 次号ではこの方式を取り巻く周辺条件、問題点、将来展望などについて述べたい。

【26】ニュータウンのバス交通をめぐって(4)みんなでバスに乗ろう

稲城の『i(あい)』バス かつての路線バスには紺の制服で明るく「発車オーライ」と声をかける女性車掌が乗っていた。やがて社会情勢の変化と男性への交替、車掌廃止とワンマンカーの登場、紙幣両替・運賃支払い機、共通バスカード、前乗り後乗り問題、深夜バス、短距離区間のサービス運賃等々、路線バスの話題はつきない。さらに、意外な出来事もあった。
 『規制緩和』
  平成13年4月、国土交通省は路線バスの運行本数をバス会社(免許を受けた交通事業者)に任せる規制緩和に踏み切った。それまでは乗客の需要と供給の運行本数を国が調査して認可していた。民間バス会社が自分の責任で地元乗客の状況と運転頻度のバランスをとる。これについて省側には経営状態尊重の措置という響きがある。
 はるか昔に路線バス始まって以来の規制緩和だ。
 『ミニバスなど』
  高齢化が進み坂道の多いこのニュータウンで、路線バスの及ばない道路を走るミニバスの役割は大きい。
【多摩】永山駅~多摩センター駅・永山駅~百草団地の2系統で発足した多摩市の『ミニバス』は永山駅が起点だ。今年の1月15日から市内を左回り右回りに循環する再編成の東西線と従来の永山~百草団地を南北線として再発足した。
 ミニバスは多摩市が路線と停留所を決めて、運行と車両を京王電鉄に委託している。常時走るバスは全部で5台。料金は170円からの低く押さえた累進制。
 市の補助金は予算ベースで年間約4千8百万円、1台当たり約970万円。 最初の1時間に1本が現在は45分間隔になった。 利用者からは30分間隔を望む声がある。なによりも先ず市民が積極的に利用することだ。
【稲城】稲城市には昨年4月30日から『iバス』と呼ぶ赤く塗った市内循環バスが走っている。
右回り稲城駅、左回り若葉台駅を起点として、大筋で「稲城駅~市役所~矢野口駅~南多摩駅~市立病院~向陽台~長峰~若葉台駅~稲城高校~栗平駅~平尾団地~坂浜~稲城駅~」の広域を循環する。左右とも1日10本、約1時間30分間隔で全線200円均一。 マイクロバス3台を市が購入して運用は小田急バスに委託。市の支出予算は年間2175万円。
【八王子】八王子市はJR西八王子駅を中心とする地域に『はちバス』があり市の購入した3台を西東京バスに委託している。
 『ミニバス乗務員より』
 ミニバスやコミュニティバスには、どこでもべテランが乗務している。生まれながらの土地っ子で京王電鉄バス多摩営業所の伊野勝男さん(61)はその一人だ。「利用される方の5~6割はシルバーパスで苦情もありません。それだけに接客には心しています。朝は通勤の方、昼間は子供連れのお母さんも目立ちます。
 新路線の瓜生地区や貝取北、豊ヶ丘2丁目界隈の方々にも好評です。
 市内を東西に走るのが良いのでしょう。バスの運転手は複雑に曲がる循環路線も自然に身体で覚えています。時刻表通りに走っていますから左右の循環を確かめてぜひご利用ください」。 路線バスもコミュニティバスも、乗客が少なければ維持は困難になる。そこでこの駆け足バス記事の結論も「遅れずにみんなでバスに乗ろう」。(岩木 伸)

【25】ニュータウンのバス交通をめぐって(3)地域を走る路線バスたち

京王鉄道・神奈中バスの混在する多摩センター駅 普通なら歩くのは無理な距離。交通機関のない地域にバスが走った当時の様子を探ってみよう。
 ◎初めてのバス
  かつての多摩村。聖蹟桜ヶ丘駅と南西部の中沢・唐木田地区を結ぶ道路は、大栗橋~村役場(現市役所)前~乞田~落合を通る都道が1本しかない。
 横倉舜三(本紙社主)著『多摩ニュータウンのあけぼの』によれば、この道路は幅員4メートルの砂利道で、中沢・唐木田地区からは駅や多摩川べりの多摩中学校まで約8キロの道を自転車か徒歩だった。
 路線バス実現に尽力した著者は「昭和31年2月16日、いよいよ開通の日 ・・・ 午前7時、1番バス」と記している。初めての旧称京王帝都電鉄バスは折返し点の中沢停留所に待機し、ここから桜ヶ丘に向かって出発した。当初は1時間に1本程度の条件だったが「道路には住民総出で車のすれちがう退避所を何十ヵ所か作った。1年ほどで路線は中組停留所まで延長された。その先はまだ道路が狭くてバスが走れなかった」という。 しかし、これが今の多摩市を縦横に走る路線バスのはじまりだった。
 ◎団地輸送開始
  開発の進むニュータウン地区に、初めて諏訪2丁目~桜ヶ丘間の京王帝都電鉄バスが走ったのは昭和46年3月26日、最初は1日30往復だった。
 また『神奈川中央交通80年史』には、8月10日「諏訪・永山団地線で京王電鉄 との共通定期券発売」の記録がある。神奈中バスがこの路線に参加した時期と推定できるだろう。
 諏訪・永山地区~桜ヶ丘駅までは約4キロ、交通手段は自家用車送迎かバスに頼るしかない。
 ◎開通当初の記憶
 永山の多摩消防署前からニュータウン通りまで、約500メートルの道路は区画整理で工期が長引いた。担当した都・事業推進課などによれば、道路が完成してバスが通ったのは昭和46年8月だった。いま正確な日付は不明だが、これは神奈中バスの参加した8月10日ではなかったのか。
 それまでの4ヵ月半、諏訪2丁目からのバスは右折して丘を越え馬引沢経由でニュータウン通りに出た。
 異様な暫定路線で、一人の主婦からはこのだらだら坂を越えるバス通勤の記憶を記したハガキを頂いた。
 しかも、その先は未整備の大栗橋交差点と地上線だった京王線中河原踏切の影響で大渋滞が続き、1キロ走るのに20~30分もかかる始末で、当時の全国紙は「絶望的」と書いている。
 昭和49年、当時は諏訪2丁目団地に住んだ福島真氏54(かしのき保育園)はこう振り返っている。「バスはすでに諏訪4丁目まで乗り入れていた。昭和46年当初、入居は一部で完了しても、まだ陸の孤島で電話もすぐには引けず読売新聞の販売店(現YC多摩ニュータウン)が電話の中継をしてくれたという。 バスは朝夕など桜ヶ丘駅を利用する住民で満員だった。49年の6月、小田急が永山駅まで開通して電車の有難さがわかった」。
 10月、京王線も多摩センター駅まで開通する。
 諏訪・永山団地の入居開始からすでに3年以上経過していた。祝うべき大規模団地完成と鉄道開通は、逆に「絶望的」の言葉をもたらすほどズレていた。
 同様にバス輸送に頼った愛宕団地~桜ヶ丘駅は約3・5キロ、その後の南大沢団地~多摩センター駅は約7キロ。入居者の思いを乗せてバスは懸命に走った。

【24】ニュータウンのバス交通をめぐって(2)初めてバスが走った日

中沢行のボンネットバス(昭和31年・新倉勇造氏提供) 普通なら歩くのは無理な距離。交通機関のない地域にバスが走った当時の様子を探ってみよう。
 ◎初めてのバス
  かつての多摩村。聖蹟桜ヶ丘駅と南西部の中沢・唐木田地区を結ぶ道路は、大栗橋~村役場(現市役所)前~乞田~落合を通る都道が1本しかない。
 横倉舜三(本紙社主)著『多摩ニュータウンのあけぼの』によれば、この道路は幅員4メートルの砂利道で、中沢・唐木田地区からは駅や多摩川べりの多摩中学校まで約8キロの道を自転車か徒歩だった。
 路線バス実現に尽力した著者は「昭和31年2月16日、いよいよ開通の日 ・・・ 午前7時、1番バス」と記している。初めての旧称京王帝都電鉄バスは折返し点の中沢停留所に待機し、ここから桜ヶ丘に向かって出発した。当初は1時間に1本程度の条件だったが「道路には住民総出で車のすれちがう退避所を何十ヵ所か作った。1年ほどで路線は中組停留所まで延長された。その先はまだ道路が狭くてバスが走れなかった」という。 しかし、これが今の多摩市を縦横に走る路線バスのはじまりだった。
 ◎団地輸送開始
  開発の進むニュータウン地区に、初めて諏訪2丁目~桜ヶ丘間の京王帝都電鉄バスが走ったのは昭和46年3月26日、最初は1日30往復だった。
 また『神奈川中央交通80年史』には、8月10日「諏訪・永山団地線で京王電鉄 との共通定期券発売」の記録がある。神奈中バスがこの路線に参加した時期と推定できるだろう。
 諏訪・永山地区~桜ヶ丘駅までは約4キロ、交通手段は自家用車送迎かバスに頼るしかない。
 ◎開通当初の記憶
 永山の多摩消防署前からニュータウン通りまで、約500メートルの道路は区画整理で工期が長引いた。担当した都・事業推進課などによれば、道路が完成してバスが通ったのは昭和46年8月だった。いま正確な日付は不明だが、これは神奈中バスの参加した8月10日ではなかったのか。
 それまでの4ヵ月半、諏訪2丁目からのバスは右折して丘を越え馬引沢経由でニュータウン通りに出た。
 異様な暫定路線で、一人の主婦からはこのだらだら坂を越えるバス通勤の記憶を記したハガキを頂いた。
 しかも、その先は未整備の大栗橋交差点と地上線だった京王線中河原踏切の影響で大渋滞が続き、1キロ走るのに20~30分もかかる始末で、当時の全国紙は「絶望的」と書いている。
 昭和49年、当時は諏訪2丁目団地に住んだ福島真氏54(かしのき保育園)はこう振り返っている。「バスはすでに諏訪4丁目まで乗り入れていた。昭和46年当初、入居は一部で完了しても、まだ陸の孤島で電話もすぐには引けず読売新聞の販売店(現YC多摩ニュータウン)が電話の中継をしてくれたという。 バスは朝夕など桜ヶ丘駅を利用する住民で満員だった。49年の6月、小田急が永山駅まで開通して電車の有難さがわかった」。
 10月、京王線も多摩センター駅まで開通する。
 諏訪・永山団地の入居開始からすでに3年以上経過していた。祝うべき大規模団地完成と鉄道開通は、逆に「絶望的」の言葉をもたらすほどズレていた。
 同様にバス輸送に頼った愛宕団地~桜ヶ丘駅は約3・5キロ、その後の南大沢団地~多摩センター駅は約7キロ。入居者の思いを乗せてバスは懸命に走った。

【23】ニュータウンのバス交通をめぐって(1)段階的開通の鉄道を補完したバス

 多摩ニュータウンの第1次入居は昭和46年(1971年)3月、多摩市の諏訪団地から始まった。
 一帯はまだ荒漠とした開発途上で南多摩郡多摩町や稲城町の時代、双方の市政はこの年の11月1日に施行されたがニュータウン地域に鉄道はなかった。
●鉄道開通年譜
 ・すでに京王電鉄は昭和41年、調布駅からの分岐線で大正時代に開業した京王多摩川駅(旧京王多摩川原駅)を高架駅に改築し、京王多摩センターまでの新線建設に着手していた。
 46年4月・京王よみうりランド、49年10月・多摩センター、63年5月・南大沢と鉄道は段階的に伸びて、橋本までの相模原線が完成したのは平成2年3月だった。
 また小田急電鉄は49年6月・新百合ヶ丘~小田急永山、50年4月・多摩センター、平成2年3月・唐木田までの多摩線が開通した。
●鉄道補完のバス輸送
 ・いま多摩ニュータウンの公的交通機関には、京王・小田急電鉄、多摩都市モノレールそして京王グループのバス・神奈川中央交通バス・小田急バスがある。バス路線は電車の各駅を中心に基本形がほぼまとまったと言えるだろう。  とかく交通手段より団地などの箱物が早く完成するのは日本の通弊だが、ニュータウンに京王・小田急の鉄道が開通するまで、バスは団地から在来駅を直結する輸送機関だった。
 諏訪団地の入居が始まった昭和46年3月26日、バスは諏訪2丁目~永山地区~聖蹟桜ヶ丘駅の団地輸送を開始した。翌47年3月16日には愛宕団地~桜ヶ丘の輸送が開始された。
 一方、南大沢の団地群は58年3月に入居を開始したが、鉄道が開通するまで暫定運行として南大沢団地~多摩センターのバスが乗客を運んだ。
 鉄道の建設状況に応じてバスは鉄道を補完していた。ただ初期の具体的な記録はいま見いだせない。京王電鉄広報部の協力による昭和49年12月末の三多摩路線図が最も古い公式記録で、バスは桜ヶ丘に集中している。開業間もない多摩センターからのバスは鶴川、山王経由桜ヶ丘の2系統だったように読める。駅の乗降客は1日平均1149人、夜は淋しい高架線の下におでん屋の屋台が出ていたというのもこの頃だろう。

【22】パルテノン多摩(4)創意工夫と不断の挑戦を!原点は文化の拠点・市のシンボル

☆全容解明に至らず
 平成2~3年頃に起こったパルテノン多摩の杜撰な運営、高額な楽器購入問題などを調査する市議会の特別委員会は、1年半を費やしても全容解明に至らず財団の人事改善、監査強化などを提言して終わった。
 この間に監督責任者の市長は専決で自らを減給処分し、財団の理事長(当時は市の助役兼務)ほか関係職員の処分が行われた。
 問題の核心は税金の使い方だが、バブル期の名残りで市民の反応も鈍かったようだ。先頃、助役として現市長の就任するまで市長職務代理を歴任した土方篤氏はこう語っている。
「当時は私自身も謙虚に反省する出来事でした。公務員は的確な仕事が使命です。仕事が出来ても独りよがりの逸脱は許されません。また財団には当初から市の職員が出向しています。問題となった業務処理は出向先で正しく仕事をしない不始末でした」「財団の仕事は、それこそ文化的感性が要求されます。現在の職員はこの財団の良さを生かして自由な創造力を発揮して頂きたい」。
☆補助金運営
 文化振興財団は市からの補助金(事業費と人件費)で運営されている。いま補助金は厳しい。例えば、平成2~3年度は4億5000万~8000万円だった補助金は平成14年度には3億5000万円となった。内訳は事業費1億7000万円・人件費1億8000万円。来年度は更に事業費を1億5000万円に削減するという。事業費の削減は催し物の量と質に影響する。基金の金利も殆どゼロの現在は当事者の工夫と努力に期待する外はない。
☆創造力を問う施設
 駅から幅40mの大通路を通って大階段の下まで約350m。大階段を上りパーゴラの下に立てば駅との直線距離は400m、高低差は30mに及ぶ。パーゴラの奥は「きらめきの池」さらに「大池」を抱えた約11万五千5000平方mの多摩中央公園に続く。
 本来、パルテノン多摩は公園ー水と芝生・木々の緑ー建物内外ー大階段ー大通路のエンド部分が一体化して、当事者にイメージと創造力を問いかける施設だ。
 開設の希望に燃えた原点に戻れば、ここは文化の拠点、市のシンボルだった。財団はプロデュース能力のある人材を揃えて創意工夫に不断の挑戦を続け、市民の負託に応えて頂きたい。
 強く記憶に残る一つの作品を記しておこう。時期が良かったとは言え、市民参加のスタッフ・キャストを交えて、初めて全域を舞台に網羅したのは平成9年8月の寺山修司劇『100年気球メトロポリス』ではなかったか。当時の財団事務局長は今の渡辺幸子多摩市長だった。 (岩木 伸)

【21】パルテノン多摩(3)高すぎた楽器購入費 不透明な仕事の横行した時代

 今年も11月3日(文化化の日・祝日)と4日(振替休日)を中心とする多摩市民文化祭でパルテノン多摩も活気づく。これを眺めながら出来事の一端を探ってみよう。
☆ホワイエと特注作品
 大ホール・小ホールの外側にあるロビーの空間をここではフランス語でホワイエと呼ぶ。設計者が図面上に記入していた名称がそのまま定着したらしい。
 まだ施設は工事中だった。市はホワイエや会議室の備品を検討しここには特注の作品を備えようと考えた。 これに対し昭和61年(1986年)6月の市議会では、特注する理由、決定の参画者、購入先との交渉などの質問が保守・革新双方の議員から執拗に行われ、市側は文化芸術性、デザイン的要素が必要と説明して市議会を乗り切った。 いま大小ホワイエの壁面にあるオブジェや造形された椅子などの作品価値は別として、開発途上のこの地域で「文化・芸術」の言葉は水戸黄門の印籠的魔力を発揮し始めていた。
☆杜撰な経理処理
 昭和61年12月から日本は一気にバブル景気の拡大期に入る。市税は増収で裕福な時代だった。
 施設を運営する文化振興財団について、平成2・3年度(1990・91年度)を検査した市の監査委員は、市の補助金に対する書類不備や紛失、特定業者を選定する業務委託、同一地方への宿泊を伴う頻繁な出張、見積書を取らない発注などの欠陥を指摘し、財団の杜撰な経理が新聞種になった。
☆自動演奏機の購入
 さらに大きく報道されたのは自動演奏機の購入価格問題だった。
 いま4階のマジックサウンドルームには8台の自動演奏機がある。公開されてパンフレットもあるから機器の詳細と芸術品か単なる骨董品かの価値判断には触れない。
 市は当初から「世界的文化財産を」と謳い都内の業者を通じて昭和61年、平成元年、2年、3年と続けて8台の演奏機を購入した。いずれも1千万円から1億2千万円の高額で総額約4億円に上った。
 ところが海外でも国内でも市場価格とは総額で約2億円の相違のあることに疑念を持った当時の山本治史市議の指摘により、平成5年3月の市議会で価格問題が表面化した。
 疑惑の大筋は、市の購入担当者は規定に反して複数業者からの見積書をとらず、取引した一業者の見積書には高額を説明する項目別の明細も記入されていない。さらに奇怪なのは、取引業者は市の仕事を紹介してくれた別業者に「売上げの10~15%を支払った。これが高値に跳ね返ったのでは」と証言しているのに対し、別業者と市の購入担当者は「事実無根」と全く反対の弁明をしていることだ。 平成5年3月、市議会にはパルテノン多摩の業務委託や楽器購入問題をめぐる調査特別委員会が発足し、委員長に鈴木邦彦市議(前多摩市長)が就任して真相解明に当たることになった。

【20】パルテノン多摩(2)歓迎された未知の文化施設

☆ 開館と運営 昭和六十二年十月三十一日、午前十時から多摩中央公園と『パルテノン多摩』の開館記念式典が行われた。関係者や招待客約千人が集う中に、当時の臼井千秋市長ほか四人のテープカット、鈴木都知事の祝辞、大階段に設定した舞台や館内でコンサートなどが披露され、施設は華やかに祝福のスタートを切った。
 たしかに公園も建物も平凡な感覚を超えた異色の作品だった。そしてパルテノン多摩の運営管理は、市の一〇〇%出資により基本財産三億三千万円で設立された多摩市文化振興財団に委ねられた。
☆ 舞台裏を覗く
 パルテノン多摩のたたずまいと館内の様子はいまでも大きな変化はない。大ホール(客席千四百十四名)小ホール(客席三百四名)や会議室などの館内は多くの方がご存じだろう。
 ここで働く人は、役職の肩書を除いて簡単に言えば市からの出向職員十二人、学芸員を含む財団の職員十人。
 さらに必要に応じて委託する音響・照明などの舞台関係者、電気・空調などの設備関係者、警備・清掃などの人々を併せると総数は約百人に上る。
 一般の目に触れない舞台裏の設備はどうか。まず大小ホールともに舞台の袖が広く大道具の出し入れも楽だ。大ホールの舞台には奈落に上下するセリもある。楽屋は通路も広く一階に小ホール用の四室、地下に大ホール用の八室でいずれも近くに複数のシャワー室、洗面所・トイレが完備している。とくに小型の部屋にはシャワー又はバス・トイレが付いている。地下の楽屋と一階の舞台袖を結ぶ専用エレベーターもある。
 これだけでも一般の中小劇場や市民ホールには及びもつかない設備なのだ。
☆ 文化とは?
 かつての行政の配布物には「市民の誇りと象徴・シンボル」などの言葉が見られる。臼井市長も市議会で「広域文化の拠点」と発言している。すでに市は文化懇談会や文化コーディネーター懇談会を開き外部の有識者たちが開発後の理想を述べていた。また公団が自分の構築した作品を文化創造と自負するのも当然だった。しかし、歓迎した行政も市議会も地域の有力者も、現実となった未知の施設にどんな心で接しどんな文化活動を想定したのだろう。以後の責任はすべて地元に託されたのだ。

ホーム > 【特集】多摩NT30年を検証

Return to page top

誕生日プレゼント 彼氏と彼女に
世界にひとつの贈りMONO
福利厚生の日本元気丸
日本元気丸の365分の4運動
横浜中華街
横浜中華街のテーマパーク
輸入住宅
リライアブルホームズ
東京の工務店 注文住宅
創業明治32年の大栄工業
介護ソフト
日本ケアコミュニケーションズ
パワーストーン ブレスレット
恋愛運と金運アップのアクセサリー
サイト売買のサイトレード
法人特化型サイト売買専門会社
犬時計
愛犬が時を刻みます