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多摩ニュータウンタイムズについて
多摩ニュータウンの入居開始を控えた1969年、新しい街の地方紙(地方新聞)として創刊し、以来、多摩ニュータウン及びその周辺地域(多摩市、八王子市、稲城市)の皆様に最新ニュースや生活情報などを提供してまいりました。今日まで読者の方々をはじめ皆様からのご支援を頂き、おかげさまで創刊40周年を迎えました。 今後ともご愛読を賜りますようお願い申し上げます。 配布エリア:多摩ニュータウンの全域(多摩市、八王子市、稲城市)

唐木田物語より Archive

唐木田物語より (6) 横倉鋭之助著

区画整理直前の昭和58年、のどかな風景が広がる唐木田谷戸。中央右の数軒あるあたりが現在の唐木田駅の位置。谷戸の向こう側は八王子市別所方面。

◆ニュータウン開発(1)
 昭和39年5月、東京都は多摩丘陵の無計画・無秩序な開発を防止し、住宅難の解消と緑地の保全を目指して“多摩ニュータウン”を建設する方針を決定した。翌40年12月には、新住宅市街地開発事業として建設大臣により都市計画決定される。八王子、町田、多摩、稲城の各市にわたる面積3000、計画人口30万人というもので、唐木田はほぼその真ん中に取り込まれてしまった。
 唐木田川沿いの僅かな水田と雑木林の覆う丘に色紙を貼り付けたように点在する傾斜畑、その水田と傾斜畑や雑木林の間の日溜りに点在する草屋根の家に住んでいた唐木田の住人にとっては、まさに「寝耳に水」の話であった。殆どが先祖伝来の農家であり、その農家から土地が無くなる。茫然自失、『俺たちはどうなるんだんべえ?』と、不安が頭をもたげる。そして昭和41年2月16日付で、日本住宅公団から「特定公共事業用地買収の申請書」が送られてきた。これは山林や農地はもとより、農家の宅地から墓地を含めた全ての土地を住宅用地として「囲い込み」全面買収するというものであった。その後『みんなのための住宅を作るのは賛成だが、身ぐるみ剥さねえで、おらたちにも少しは残してくれ』という地元の強い思いで、既存の集落部分は注1新住法による全面買収の対象から外され、「土地区画整理事業」としてニュータウン開発が行なわれることに計画変更される。
 実際に区画整理事業の工事が始まるのは、ずっと後の昭和58年からであるが、その前に更に大変な問題が持ち上がってくる。唐木田の棚原にニュータウンのごみ焼却場を造ると言うのである。
*注1新住宅市街地開発法=昭和38年、大規模な住宅団地の建設を目的に施行され、全面買収や土地収用法の適用があり、農地を手放した農家には施工者が生活再建策を取ることが義務とされている。 100901号掲載

唐木田物語より⑤

現在の唐木田駅北東から南側を撮影(昭和40年頃)。中央の丸い木の下の「笠地蔵」は今もほぼ同じ位置(マンションの駐車場※写真下)にある。

◆明治大正昭和(2)
【交通】
 平成2年3月、小田急線が「唐木田」まで開通したが、それ以前の昭和48年に京王線の「多摩センター」ができるまでは、京王バスで「聖蹟桜ヶ丘」に出ていた。このバス路線は昭和31年に地元の強い要望で「中沢」まで開通し、2年後に「上落合」まで延伸された。この時の主な要望理由の一つが、昭和27年に多摩中学校が現在の関戸(多摩川近く)に移設され、片道6㎞以上の道を中学生は通学することになり、家業の農業を手伝うことが出来なくなってしまったことだった。それ以前の主要道路は小野路~八王子往還と呼ばれた道が長坂谷戸を出てきて、唐木田へ入り堂近谷戸(現在の李久保公園辺り)からオオカミ谷、富士塚を経て堀之内に抜けていた。堂近谷戸の入り口からは別の道が唐木田の奥、源剛寺へ伸びていた。昭和37年頃から数年の間、神奈中バスが相模原駅からこの道を通り唐木田まで入っていたことがある。もう一筋、稲荷坂から山中へ抜ける道があった。これらの道は、春秋2回の「道普請」により、谷戸中の人々が一日掛りで草刈りや補修をし、また台風や大水で崖崩れがあれば直し、雪が降れば除雪をしていた。
【生業】
 もともと純農村であったが、土地が狭く特に水田が少なかったので、副業がいろいろ行われていた。特に盛んだったのが「養蚕」。明治から昭和の初め頃までは殆どの家でお蚕を飼い、繭を売るだけでなく、糸引きをし、生糸として八王子や町田の「市」に持っていった。また機織機を買い、「賃織」もしていた。冬には炭焼きや薪・目籠作りをし、養鶏や養豚も行い、戦後は野菜出荷組合を作り、新宿の淀橋市場に出荷していた。しかし畑も山の傾斜地で、人力や牛馬に頼る農業であったため、ニュータウン開発という時代の波の中に消えていってしまった。  100801号掲載

唐木田物語より④ 横倉鋭之助著

上落合バス停付近からの棚原山、山頂にお伊勢ノ森があった。今は山そのものがなくなり、小田急の倉庫になっている。煙突は清掃工場(昭和51年頃)

◆明治大正昭和(1)
 慶応4年(1868年)の鳥羽伏見に始まり翌年の函館に終る戊辰戦争により江戸幕府は倒れ、江戸も東京へと変わっていく。
 明治4年の廃藩置県で多摩は神奈川県に属するようになる。次いで明治22年の市町村制の施行で落合等旧八ケ村と百草・落川の飛び地が合併して多摩村が誕生した。明治26年に東京府は水源確保のため三多摩を東京府に編入し、昭和18年に東京都となる。唐木田は落合の一部を構成し「東京都南多摩郡多摩村落合字唐木田」であった。
 当地の小字名として「土橋(土橋)・李久保(すももくぼ)・榎戸(えのきど)・樋口(とよぐち)・棚原(たなばら)」があった。今は一部が公園の名前として残っている。また、「所名」と云った古い歴史や謂れのある伝承地名があったが、次第に忘れ去られていくのは淋しい。以下に思い出す「所名」を記すので、その伝承や謂れを想像して見るのも面白いかもしれない。ただ、今その場所に行っても、昔の面影が残っているところは殆どない。「影取池・大びゃく谷戸・あら田・池田・三百田・狼谷・堂ノ山・砦山・厳耕地(源剛寺)・山王塚・お伊勢ノ森」。
 明治3年に県役所に提出された旧落合村の住民録に拠ると、当時はまだ江戸時代の5人組の組織が生きており、唐木田は14戸で、中組の1戸を入れ3組となっている。これには「古澤・高村・横倉」の3姓で75名の名前が記されている。その後、明治年間には分家7戸、転出1戸があり、大正元年の総戸数は20戸となり、昭和元年も20戸人口136名となっている。
 往時には「家名(いえな)」があり、その家の歴史や成り立ち、職業などから付けられ、唐木田には「トリヤ・タネヤ・ニヤ・カサ・ドウキン・ウエ・ミセ・タバコヤ・アラタ・ニシ・シンヤ・ヨリヤ・インキョ」といった「家名」があった。 100701号掲載

唐木田物語(横倉鋭之助著)より ③

◆江戸時代
 天正18年(1590年)関東に入国した徳川家康はすぐに家臣の知行割りを始めた。その際江戸から近い武蔵、相模には幕府直轄地や中小の知行取りの旗本を配し、一夜泊りで江戸に駆けつけられるようにした。
 現在の唐木田が属する旧落合村も当初幕府直轄地であったが、元禄10年(1698年)の「地方直し」によって旗本の松平氏と曾我氏の知行所に分割され、松平氏の知行所を「上落合村」、曾我氏の知行所を「下落合村」と呼ぶようになる。
 この分郷に関する資料として*「武蔵国多磨郡落合村田畑百姓分ケ帳」が残されており、実際の分村は翌元禄11年に行われ、村中の百姓が相談し、同属的な纏りや日常的な繋がりを尊重し、出来るだけ混乱を避ける形で分割されたことがわかる。
 また享保8年(1723年)の「落合村座帳」には村の人々が会合などで座る席順が記されており、名前のところの「上」「下」の記載は「上・下落合村」の区別を示し、上落合村には「横倉」「高村」「古澤」といった唐木田に多い姓がある。この三家について、宝暦13年(1763年)の「落合旧記」には元亀や元和といった1600年前後の御水帳や棟札あり、と記され、その名前も「藤太郎・勘兵衛・兵庫」と、武士を思わせる名前がある。
 戦国の世が終り江戸の始まる頃、何処かの落武者が山深い唐木田の谷戸に隠れ住んだのであろうか。
◆唐木田稲荷神社と石仏
 創建の年代を明らかにする資料は無いが、先の「落合旧記」には『唐木田稲荷社ハ藤太郎ノ地也 谷戸中ノ神也』とあり、また棟札には『文化9年(1812年)3月29日再建 施主横倉與兵衛 行年85心願』と記され、氏子として横倉、高村、古澤14名の名前が書かれている。
 …その昔、稲荷の森には大蛇が棲んでいて、美しい娘に姿を変えて村人を沼に誘い込んだりしていた。そこで清左衛門という若者が杉の大木の洞穴で寝ている大蛇を退治したのであるが、若者もその時大蛇の口からでた青い焔で眼が見えなくなってしまった…という伝説がある。
 境内に6体の石仏が、小さな覆屋の中に安置されている。いずれも江戸年間に造られ、以前は参道にあったもの。その中で特に珍しいのは、男女が優しい幸福感に満ちた表情で刻まれている「双躰道祖神」で、多摩市内唯一のものであり、元和7年(1621年)の年号がある。 100601号掲載

横倉鋭之助著「唐木田物語」より 第2回―古代には国府街道の沿道だった―

街道はこのゴルフ場を通って唐木田へ抜けていた。

 大和朝廷の勢力が東国にまで及ぶようになると、武蔵国の国府が今の府中市に置かれ、天平13年(741年)頃に武蔵国分寺が建立された。当時国府街道という官道が各地の国府を結んでいたが、相模の国府と武蔵の国府を結ぶ道が多摩丘陵を横断していた。相模国府の寒川から店屋(現在の町田市鶴間)を通り、今井谷戸、七国山を経て下小山田の大泉寺に達した国府街道は、落合(現在の多摩市唐木田)に抜け乞田・貝取を通り関戸から多摩川を渡って武蔵国府へと通じていた。小山田から落合に抜ける部分は、大泉寺付近から堂谷戸に入り、東京国際ゴルフ場を通って総合福祉センター辺りから多摩市に入ってきたと推定され、古代における唐木田は国府街道の沿道だったことになる。  
 鎌倉時代になると、幕府のある鎌倉から武蔵、上野方面に通じる武蔵路といわれる鎌倉街道が出来、先の国府街道の七国山付近から北上して鶴見川を渡り、小野路を通って貝取へ抜けるようになった。このため古い国府街道はやがて忘れられた道となってしまった。
 その頃の唐木田はどうなっていたのだろうか。隣の小山田には平安時代末期より桓武平氏の流れを汲む一族が秩父から移り、小山田氏を名乗っていた。源平の争いが始まると源頼朝に従い平家追討に活躍した。特に初代当主小山田有重の三男重成は頼朝の妻政子の妹を娶り、一族は有力御家人となっていった。大泉寺付近に本拠を構え、小野路城や稲毛城を築き、唐木田の棚原(以前は小田急の車庫の辺りは小高い山であり棚原山と呼ばれていた)にも出城があったようだ。大泉寺から馬の背のような細い尾根で繋がる棚原に北の守りの城を築き、そこに長男有高を配し、関戸付近までを支配していた。その後小山田氏は北条氏に滅ぼされるが、棚原にはその後も館があり、武士が住んでいたと伝えられている。天正18年(1590年)、八王子城が落城した時に討ち死にした北条氏照の家臣島崎二郎某なる武士が棚原の館にいたと「武蔵名勝図絵」に記されている。
 また新田義貞が鎌倉を攻めた元弘3年(1333年)の関戸・分倍河原合戦の時のものと言われる「勝負塚」が、東京国際ゴルフ場内にある。関戸で敗れた鎌倉方が小山田城に逃げる時の戦いで戦死した兵士達を葬った塚と言われている。
■国府=古代国家の中央集権体制を目指して全国約68カ所に置かれた役所
■武蔵名勝図絵=八王子千人同心の組頭植田孟縉が文政3年(1820年)に書き上げたもの  100501号掲載

横倉鋭之助著「唐木田物語」より 第1回

東京都埋蔵文化財センターに復元されている縄文時代の住居

 南関東の平原に緑の帯を投げ捨てたように細長く東西に連なる山並みを多摩丘陵という。丘陵は平地と40~50メートルの高低差をなし、尾根は右に左にと走っている。その尾根と尾根の間に、谷戸と呼ばれる谷が、木の枝のように入り込み複雑な地形を造っている。 谷は狭く、手を広げれば両側の山に届きそうで、そこに狭い田圃が拓かれ小さな部落が点在している。唐木田の里はそんな部落の一つであり、多摩丘陵のほぼ中央に位置している。
 浅川を併せた多摩川が多摩丘陵に沿うようにその流れの向きをやや南に変える辺りに、丘の谷間から流れ込む一筋の流れがある。土地の人々が大栗川と呼んでいるその川を遡ると直ぐに、乞田川が分かれる。乞田川はそのまま西の方向へと進み、八王子と町田の境にある小高い丘へと辿り着く。その行き詰まりの部落に、南傾斜の山裾を削って20戸ばかりの家が点在している、そこが唐木田。乞田川は多摩の中央部に開けた田畑を潤す水利の源であり、そこに住む人達の命の根源であった。川沿いには四季折々の草木が里を彩っていた。
 しかし昭和40年から始まった多摩ニュータウン開発により、唐木田の谷は埋められ、乞田川も排水のための味気ないコンクリートの河川になってしまった。
◆唐木田のあけぼの
 この唐木田の地に人が住み始めたのは、何時ごろのことであるのかは明らかではないが、かなり古い時代のようで、私たちの先祖と言われている縄文の人達も、この唐木田に住んでいたようである。多摩ニュータウン開発に伴う遺跡調査で、棚原地区から約九千年前の縄文時代早期の土器が出土している。また土橋地区からは約4千年前の縄文早期~中期の遺跡が見つかっている。
 次の時代となる弥生時代(約二千年前)の遺跡はあまり発掘されなかったが、古墳時代(約千五百年前)の土器はやはり棚原地区で出土している。この頃には唐木田の谷戸に人が住み、農耕生活が始まっていたのだろう。 100301号掲載

遺跡調査: ニュータウンの遺跡調査で発掘された土器等は、多摩センターにある「東京都埋蔵文化財センター」に展示保管されている。
棚原: 現在の小田急電鉄(株)唐木田車庫の辺り。小高い丘となっておりそこに畑が広がっていた。
土橋: 唐木田の西方、今は土橋公園がある。

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