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たまには多摩語り Archive
たまには多摩語り 【養豚】子豚市場開設
- 2001-02-01 (木)
- たまには多摩語り
昭和25・6年頃のこと、多摩村農協組合長の相沢さんが都道(現在の多摩ニュータウン通り)で雄豚を追う姿が見られた。都道といっても砂利道なので、豚は足に砂利が食い込まないよう端のやわらかい草の生えているところを選び、駆るでもなし歩くでもない一定の速度で休みもせず進んで、雌豚の待つ養豚家のところへまっしぐらという感じである。組合長のいでたちはというと、襟無しのシャツに胴巻き姿で、およそ背広とネクタイ姿とはかけ離れていた。篠のムチを持って豚の後を追っていた光景を記憶している人もいることだろう。この頃、農協の経営は危機に陥っていた。組合長をはじめ理事の横倉さんや役員は、連光寺・乞田・落合など各支部に農協の経営危機を訴え、養豚や野菜栽培の普及を熱心に訴えて廻った。高額で飼育が大変な乳牛より手軽に飼育できる豚や鶏など飼いやすい家畜を飼ってはどうか。堆肥は農作物に利用でき、餌は残飯でもよいし、世話は女子どもでも出来て育てやすいということからだった。農協役員が各支部に熱心に話して廻った結果、農家の養豚熱は高まったが、家々に雄豚を連れて行く種付け方法では能率が上がらなくなった。そこで、相沢さん・横倉さん・井上さんは立川農事試験場で人工授精師の資格を取りに行った。合格した3人のうちでそれを仕事にしたのは横倉さんだけだった。血統証つきの雄豚を購入し、落合家畜人工授精所を開き、養豚家の要請に応えて精子を持って東奔西走した。種付料として生まれた子豚を1頭、生後2ヵ月位の離乳したものを引き取った。横倉さんが村会議員をしていた時、議会開催中、自分の机の下に豚の精液が入った魔法瓶を置いていたところ、中身を知った同僚から奇異な目で見られたこともあったという。乞田で豚屋と呼ばれていた伊藤さんは、子豚を貸し付けたり肥育した親豚を買い上げたりする仕事をしていた人。農家に貸し付けた子豚を半年後、キロ当たりいくらで買い戻し、育てた人には子豚の貸付料を差し引いて代金を払った。昭和27年、多摩村農協で子豚の競り市が開かれるようになり、農家で生産された子豚を持ち寄り、買いたい農家の人や業者が集まり、競り落としていった。競り市は農協の庭に高台を設け、その上に四方金網で囲んだ枠を置き、その中に1頭づつ入れて競りに賭けた。残念ながら、この市場は後に町田市小山田に常設の市場が出来たため定着しなかった。養豚熱は盛んになったが、この地域の一大産業だった養蚕ほどには伸びず、一家を支える収入を得ることは出来なかった。50年も前の風景であるが、今ではこの子豚市場があったことさえ分からない。だた、この時代にも新しい地場産業の育成に努力していたことは評価できると思う。2001.2.1号掲載
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たまには多摩語り 【嫁入りの行事】結婚式を御祝儀と言った
- 2001-01-01 (月)
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農閑期の1月から3月、農家では結婚式の時期だった。縁談のまとめ役をする人をハシカケと言い、話がまとまると双方の家では仲人を決め、吉日を選んで酒などを持って行き婚約が成立した(クチガタメ)。イイノウ(結納)には、仲人・ハシカケ・親戚代表等が奇数で、つの樽・はさみ箱に名刺や土産品を入れて先方に持参し、この時に結婚の日取りや人員などを決めた。昔は結婚意識を御祝儀と言い、家と家とを結びつけるものだった。当日の午前中または午後早目に仲人夫妻・婿・親戚代表・組合代表等が相手方の両親への土産や半紙に婿の名前を書いた名刺などを持参し、提灯をさげていく。これをシンキャク(新客)と言い、嫁方ではご馳走で迎えた。婿が引き揚げた後、華美な振袖に角隠しの盛装をした嫁とともに、嫁方は提灯をさげ土産を持って婿の家に向かう。嫁が出た後の実家では、戻り返らないようにと座敷を掃き出した。婿は嫁が来ても出迎えないが、婿入りの場合は嫁が婿を出迎える。婿の家に着くと、火が付いたたいまつを持った男の子と女の子がトンボグチの左右に立ち、嫁はこれをまたいで勝手口から家に入る。この時、嫁の頭上には、高望みをしてはいけないとの意味で、蛇の目傘がさされる。嫁側の客人は玄関や表縁から入り、持ってきた提灯は火を消さずに嫁側と婿側の祝言の挨拶が終わるまで表口に並べておいた。座敷では、床の間を背にした正面に両仲人の男が坐り、その左右にハシカケ、縁側を背に婿と男の客人、向かい合って嫁と女の客人が、それぞれ席順に従って坐る。嫁の左右には両仲人の夫人が坐り、嫁の面倒を見る。下方中央には祝宴の司会をするオショウバンが2人座した。最初に礼酒(冷酒)が出され、オショウバンから始まり左右同時に杯がまわされ、次いで燗酒がまわされる。披露宴では3回吸い物が出され、嫁は色直しに3回着物を着替えた。酢の物と蕎麦が出されたら、祝宴も終盤。プッツワリボタモチが客人に出され、嫁と婿にはオタカモリ(椀に高盛りした飯)が出る。最後に嫁が茶を出して式と祝宴は終わりとなる。翌日、嫁は角隠し姿で組合の老女に付き添われ、半折の半紙に名前を書いた名刺を持って近所に挨拶してまわった。嫁入り道具は、紋付・留袖・晴れ着など一生分の着物を入れたたんす、2組の寝具を入れた長持、下駄箱、たらい、張り板、断ち板、針箱、鏡台、小物類ははさみ箱に入れて、嫁入りの前日に荷車で運び、荷造りに用いた菰・縄などは、嫁が実家に帰らないようにと、すべて持ち帰った。 20001.1.1号掲載
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たまには多摩語り 【大根引き】沢庵の漬け込み
- 2000-12-01 (金)
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11月になって、ひと霜降りる頃になると大根は甘みを増してくる。この時期に「沢庵」用の大根を引く。昭和の半ば頃までは食生活は一汁一菜、ご飯が主でそれに味噌汁と沢庵がつく程度だった。一年間通して食べる沢庵を漬け込むのがこの季節である。大根引きに合わせて8月半ば頃に種をまく。多摩では湿気の多い低地を避けて丘陵地の水はけの良い畑に作られていた。畑が粘土質ではないサラサラした土質ほど、肌の綺麗な大根が育った。「大根引き」は子供も含め、家族全員の仕事として行われていた。抜いた大根を大人は一運び15・6本位、子供でも5・6本を背負梯子で家まで運び井戸や堀で洗う。それから2本の葉の部分を縛って樫の木の垣根に吊るして干したり、葉を落として1本づつ縄で編んで干したり、稲の掛け干しに掛けて干したり、干し方もいろいろだった。霜が当たらないように筵(こも)をかけ20日近く干し、その年の暮れの内に漬け込む。ひと家庭で150~200本位を四斗樽で2本も漬け込む家もあった。米糠と塩で樽に丁寧に積み上げていく。色出しには干し柿用の渋柿の皮を干したものを漬ける。樽に入れると自然に黄色い沢庵が出来上がる。また唐辛子を入れて味の変わるのを防いだ。沢庵漬けは各家の嫁と姑が共同で行う暮れの行事であった。大根の干し加減はその家によってまちまちだった。暮から3月頃まで食べるものは生干しにし、遅くまで食べるものは、やわらか干しにした。裏口の寒いひさしの下に重しの石をいくつも乗せて漬け込んでいく。酒樽を酒屋から買い入れて沢庵用に使用していた。現在のプラスチック容器につけるよりはるかにおいしい。また、暮れは醤油搾りの時期でもあり、搾った醤油を煮詰めるときに出る醤油の泡で漬けた「泡漬け」もまた格別であった。干し大根に向かない短いものや折れたり変形した大根は切り干し大根となった。お婆さんなどが暮の寒い日でも日の当たる縁側の隅で2日も3日もかけてコツコツと大根を短冊型に薄く刻み、筵に広げて乾燥させる。それが煮物になったり味噌汁の具としておかずになる。葉っぱがカラカラに乾いたものを干葉(ヒバ)と言い、これも味噌汁の具となっていた。大根は冬野菜の王様。「おでん」や正月のお雑煮にはなくてはならない。食を進めたり消化を助ける働きをしている。こうして家族総出で行われていた大根引きを知る人も今では少なくなった。 2000.12.1号掲載
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たまには多摩語り 【多摩丘陵の動物たち】皇室の食卓を賑わせたのか
- 2000-11-01 (水)
- たまには多摩語り
開発前の多摩丘陵は、種の宝庫。たくさんの動植物の棲みかであった。数は激減したものの、現在でも野生の動物が生き続けている。●タヌキ 雑食で野山の穴にすんでいた。夜行性のため、人目につかなかったが、開発が進み山がなくなると、人家の鳥や食べ物を狙って姿を現すようになった。数年前、関戸の民家でトラバサミという仕掛けにタヌキが掛かったこともある。●キツネ 肉食で、行動範囲が広く、一晩で40キロも山の尾根を駆け巡る。「キャーッ、キャーッ」という雄の鳴き声は不気味。「キツネが鳴くから早く寝なさい」と昔の子供は言われたものだ。森の開発で餌の調達が困難になり、民家の家畜を狙う姿が目撃されるようになる。5年前、唐木田駅前の道路でヒヨドリと共に車にひかれたキツネがいた。獲物を持ち帰ろうとしていたことから、子育て中であろうと推測された。また、堀之内の養鶏場ではキツネに盗られるという。●野ウサギ 明治天皇が3度にわたり、連光寺の山でウサギ狩りを楽しまれたことで有名。貴重なタンパク源として皇居の食卓をも賑わしたかもしれない。●キジ 美しい羽をもつキジは、肉も美味しい。戦前まで聖蹟記念館北側にあった鳥獣実験場では、人工孵化によってキジの数を増やし、山野に放していた。当時、そこでは剥製にもしてくれた。●ヘビ 乾いた場所にいる小さなヘビはヤマカガシ。天井裏や家の周りにいる大きなヘビは青大将。ジメジメした場所にいるのがマムシ。しめ縄飾りのモデルでもあるヘビは、子孫繁栄や幸福の象徴である。●コジュケイ チョットコイ、チョットコイと高い声で鳴く、鳩と同じくらいの大きさの野鳥。●サンヨウウオ 由木の川に現在もいると思われる。●イノシシ 発見された縄文時代の遺跡からイノシシを捕獲するための落とし穴がたくさん見つかった。今はいない。●シジミ 清らかな淡水にはたくさんのシジミも棲んでいた。これらの動物たちの絶好の棲みかであった多摩丘陵は、今その姿を変えてしまった。開発が進み、永年棲みなれた多くの動物たちは追われることになり、「平成狸合戦ぽんぽこ」というアニメ映画も登場した。 2000.11.1号掲載
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たまには多摩語り 秋祭り
- 2000-09-01 (金)
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鎮守の森の鳥居の前に2本の長いのぼりが立てられ、ドンドコドンドコ太鼓の音が山間に響き渡れば祭りの始まりだ。村の人たちは、にわかにそわそわし始め、太鼓の音に引かれるようにぞろりぞろりと集まっていく。家々では赤飯を炊いたり酒饅頭を蒸かしたり、ちくわ・里芋・こんにゃくを炊き合わせた煮しめを作ったり、と祭りの準備に余念がない。祭り当番は、家でこしらえた赤飯や饅頭、煮物を持ち寄り、男たちは筵の上に車座になり、お宮の境内では賑やかに酒盛りが始まる。鼓や太鼓、笛のお囃子に合わせて獅子舞の神楽が神社の氏神様に奉納され、村の人たちは待ちに待った芝居を楽しみ祭り気分に酔いしれた。新暦の9月から10月にかけて、あちらこちらの神社で作物の収穫を祝って秋祭りが催される。夏暑く雷雨の多い年は、作物の生育が良好で、9月のはじめ、豊饒となることが予想されると、祭りの開催が決まる。神楽や芝居の奉納は豊作か不作かにより決められた。神社には、酒や金銭を包み記名した祝儀袋が奉納された。拝殿の桁には奉納者名と倍の奉納金額が書かれた半紙がずらりと掛けられた。祭りは奉納金で成り立っており、村会議員など名誉職の人や肥料屋、酒屋、荒物屋(雑貨店)など、村で商いをしている人たちが納めた。商売人にとっては常日頃ひいきにしてくれている地域の人へのお返しの場であった。境内にはセルロイドのお面やねじり飴、麩菓子、かき氷、玩具などの屋台が黄みを帯びたアセチレン燈火の下に並んだ。辺りが夕闇に包まれる時刻になると、いよいよ芝居の始まりだ。村の人たちは離れた土地に住む親戚も呼び集め、一族総出で芝居見物に繰り出す。神楽殿の舞台には花道が設置され、そこに花(奉納金)の額と奉納者名が、金額により大きさの違う紙に書かれて張り出された。神楽が奉納された後、前座でヒョットコやオカメ、白狐の面を付けた人がお囃子に合わせて踊り、芝居師により忠臣蔵、牛若丸、国定忠治などの芝居が演じられた。多摩の芝居師には、小泉・新倉の2人が始めた貝取の小倉一座や大塚の西川一座があり、神社は祭りのために芝居を買い、若者たちが芝居の準備をした。祭りは村と村の交流の場であり、地域を活気づけた。村には20から30軒の単位でお宮があり、落合の白山神社、小野神社、堀之内の南にある北八幡神社、大塚の八幡神社、東中野の熊野神社などは、今も残る古来のお宮である。祭りの喧騒が去り、軒先を秋風が吹き抜ける頃になると、農村は繁忙な収穫の時期を迎えるのだった。2000.9.1号掲載
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たまには多摩語り 多摩川【多摩川がもたらした恵み】
- 2000-08-01 (火)
- たまには多摩語り
多摩川が幽谷から海辺に至る河川美は古来より人々を魅了し、数々の芸術を生んだ。多摩市指定有形文化財の「調布玉川惣画圖」もその一つで、今から150年以上前に、関戸の名士でもあった文化人相沢伴主によって作成された地誌的な川絵図である。幅30cm、長さ約13メートルの巻物に描かれた清流多摩川と、その流域の名勝地がその美しさを今に伝える。多摩丘陵で数多く発見された古代遺跡は、河川沿いに帯状に分布している。起伏が多い多摩丘陵では多摩川の水量も多く水系が発達した。支流の大栗川、大田川、乞田川、三沢川、堺川などの流域に縄文人の生活の跡を見ることから、川が如何に生活の基であったかが分かる。下流に豊かな水が流れ、外敵や川の氾濫から守ってくれる丘陵が横長に広がる…。多摩丘陵は生活に適した場であった。湧水や水がボコボコ出る掘りぬき井戸の豊富な水は、農耕や養蚕、鯉の養殖など様々な恵みをもたらした。神奈川県であった三多摩が東京に編入されたのも、多摩川の水系に因る。皇居をはじめ東京では、多摩川の水を飲んでいたが、あるとき羽村の堰に菌を流したという噂が広まり問題になった。それを機に上流まで東京の管轄にしたのである。清流多摩川には漁業組合に管理されるほどの鮎がいて、明治天皇も関戸へ鮎漁にいらした。鮎は高級魚で庶民がいつも食べられるものではなかった。関戸の井上という料亭では、多摩川に屋形船を出して上流階級の社交に利用されていた。プールなどなかったため、澄んだ川で大人も子どもも泳ぎ涼をとったのである。その後、関東大震災で壊滅した東京の復興にコンクリート需要が大幅に増え、多摩川の砂利が大きな役割を担った。是政から東京に砂利を運ぶ電車は砂利線と呼ばれた。多摩川競艇場は砂利を掘って開いた穴が池になったものを利用して作られた。のちに是政駅前は連光寺の山を削って埋め立てられた。鑓水商人が構想・着工した南津鉄道も砂利運送の必要性に目をつけたのが始まりだった。不況になり工事は中断してしまったが、当時の航空写真には線路の跡を見ることができる。古代から人は川のほとりに生きてきた。川の水は常に新鮮で、上流から肥沃な土を運んで下流の田畑に恵みを与えた。治山治水により、川は生活の脇役になり化学物質で汚染されてしまった。もう一度、鮎が棲めるような、子どもたちが泳ぐことのできるような清流を、蘇らせたいものだ。 2000.8.1号掲載
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たまには多摩語り タニシ拾い【農家の貴重なたんぱく源】
- 2000-07-01 (土)
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谷戸田の水がわずかに温む4~5月になると、子どもたちは桶を持って冬眠から覚めてくるタニシ拾いをした。田植えの前と秋の稲刈りが終わった頃のことだ。ずぶずぶと足の沈む湿田に入ってのタニシ拾いは農家の食卓を飾る貴重なたんぱく源でもあった。タニシは田に棲む巻貝で右巻き。夏頃になると雄貝は死に、雌貝は体内でかえした子貝を産み、さらに3年ほど生きる。生まれた子貝はすぐに這うことができる。秋の終わりには泥の中にもぐって越冬する。タニシは淡水で水が淀んでいる所に生息し、少しでも海水の影響を受けるところでは棲めない。その昔、多摩の落合地区の谷戸田にドブッ田と呼ばれたところがあった。谷戸田は、一ノ宮や関戸地区のような乾田に対して、湿田で、山と山に挟まれた谷に作られたことから谷戸田と言った。山から湧き水が滲み出してくるため、谷戸田の湿地を水田にすると一年中じくじくと水底の柔らかいドブッ田となり、足はおろか腰まで入ってしまう深さがあった。それでも水田として利用するため、冬の間にかき集めておいた落葉の堆肥や青草を腐らせたものや有機質の肥料を入れるので、泥の中の有機質が大好きなタニシにとってドブッ田は格好の棲み処だった。田んぼに広がったタニシの這った跡が模様のように見える。そうしたのどかな風景も、時としてさーっと飛んでくる白鷺や時雨や夕立に驚かされる。あわてて素早く泥水に潜り身を守るタニシ。日照り続きのときも凌いで生きていく。タニシ拾いは子どもたちの役目。水面に出てきたところを捕る。小さいものは来年に残し大きいものだけを拾い集める。タニシは大鍋で茹でてから、貝のふたの部分に竹串を差込み、持ち上げてくるっと回すと身が抜ける。これを佃煮や味噌汁、酢味噌和えにして食べる。夏のタニシは味は良いが臭み(泥臭さ)がある。タニシには昔からいろいろな効用があると言われ、身を干して乾燥させたものは「水当たりに効く」と旅行に持って行ったそうだ。開発の進んだ多摩ニュータウンでは水田を見かけることも少ない。子どもたちがタニシを手にすることもなければ、それを食べることなど無に等しいだろう。湿田にあれほどいたタニシも農薬には勝てず、滅んでいった。緑したたる草木の育つ山から水の滲み出した湿田、谷戸田は過酷な条件ではあったが自然はあふれるほど豊かだった。セリや蕗などの香り高い野草、タニシ・しじみ・どじょうなどの生きもの…。人々も自然の恵みを受けてきた。生きものがいる、タニシがいる。自然が生きているということだった。多摩ニュータウンでタニシを捕って食べたことのある人たちは、今はもう70才を超える人たちだろう。 2000.7.1号掲載
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たまには多摩語り かいこ【一大産業だった養蚕】
- 2000-06-01 (木)
- たまには多摩語り
幕末から明治・大正・昭和の初期まで、「養蚕」は多摩丘陵一帯の一大産業であり現金収入の大きな柱となっていた。一ノ宮や日野方面などの平地では水田が多く桑が植えられなかったため丘陵地帯で盛んだった。全国的にも輸出が盛んに行われ、長野県の野麦峠などの女工哀史を生み出した。養蚕は季節と深い関わりを持っていた。水のぬるむ季節になると準備が始まる。屋根裏に積み上げてあった蚕具(えびら)を川できれいに洗い消毒用のもみがら炭を作り始める。若葉の頃、蚕をキジや鳩の羽で作ったはけで掃立てる。掃立てから3、4日経つと蚕は1回目の休眠と脱皮を始める。また4、5日で2回目の休眠と脱皮が行われる。4回の脱皮を繰り返し、25~26日を超えると蚕はひきる。この間、「お蚕の先生」と呼ばれる指導員が各家を廻る。先生につかないで勝手にやるのは難しく全滅の恐れがあった。戦前は各村に一人づつ指導員がいた。この辺りでは、多摩村と由木村にも一人づついた。養蚕の収入が1年の生活費の大半を占めていたため、失敗すると深刻だった。蚕が脱皮する時期が一番抵抗力がなく弱い時期で、大事に扱わないと死滅することもある。全滅してしまうとやり場のない憤慨はしばしば嫁に向けられ、嫁はいたたまれず家の外で一人で泣いていたものだという。蚕は糸を吐き出す頃になると、体が透き通ってきて桑を食べなくなる。上蔟(まぶし)に入れ繭を作らせる。さなぎに変わるまで1週間乾燥させる。糸をとるか生繭のまま製糸会社へ売り渡すか、農家によって選択は異なるが、生糸をとる場合には乾燥庫で繭の中の「さなぎ」を殺さなければ保存は効かなかった。蚕は春児・夏児・晩秋と年3回獲れる。春は枝のままの桑を与えるが、夏と秋は子どもと女性が畑へ桑の葉を摘み取りに行く。摘み取った葉は萎れないように穴ぐらに入れておく。当時はどこの家でも養蚕のための穴ぐらを持っていた。冬の間は、炭焼きをしたり竹を切り出してえびらを作るなど養蚕のための下準備に精を出す。このように1年の暮らしは養蚕のために費やされていた。しかしこの産業は戦後、ビニールや人工製糸が盛んになり、生糸の生産減少とともに衰退していった。農家では、機械化をしたり、都心に近いためほうれん草やねぎ・芋などの生産も試みたが、酪農や養鶏など、どれも養蚕に代わる一大産業にはならなかった。多摩ニュータウンの誕生も養蚕の衰退がもたらした産物だとも言えるのではないだろうか。 2000.6.1号掲載
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たまには多摩語り 堰普請【今も知名で残る大塚の堰場】
- 2000-05-01 (月)
- たまには多摩語り
稲作りの最初の仕事は「堰普請」だ。苗代を作る前の4月下旬から5月の初旬にかけて、川をせき止め田圃に水を引き込む「堰」を作る。堰普請は米作りには欠かすことのできない作業だ。土を詰めた俵を川に並べ、俵に杭を打ち込んで流れをせき止める。その下流に松の丸太の杭をいくつも打ち込み杉の葉で覆い隠す。堰の手前には田圃に水を引き込む取水口を設ける。水路は、丸太の杭を間隔をあけて打ち込み間に板を張って作る。丸太や杉の葉などの材料は、水を引き込む田圃の面積に応じてそれぞれが持ち寄り、堰に一番近い人が堰普請の作業をする人たちのために、お茶とおやつを用意した。堰は半日から1日で出来上がった。取水期間中は田圃に常に、水が入っているかどうか夜も当番で確認に行く。水は7月終わりまで田圃に流しいれ、稲穂が実り始める頃には取水口を閉める。農家の人にとって5月から8月始めまでは、まさに水との戦いだった。丘陵地における川の水量は、下流の平地は豊富だが源流に近い上流は少ない。だから山の奥へ
行くほど水はこの上なく大切なものとなった。多摩市内を流れる多摩川流域は水量が多く堰を作る必要がなかった。直接川の水を田圃に引き込んだ。八王子市と多摩市を流れる大栗川の源流は旧由木村の西端に位置する。御殿峠の山中にある「大栗」の名は、多摩地域に栗の木が多かったことに由来するという。多摩ニュータウンの造成時にそのほとんどが伐採されたが、栗の木は腐りにくいため京王線の枕木に使用された。大栗川は大田川と松木合流し、由木地域や堀之内、別所、大塚を通る。そして唐木田から流れる乞田川と関戸で合流して多摩川に流れ込む。多摩川を除いたそれぞれの川の流域には、大小の堰が何十とあり田を潤していた。大塚帝京大学前にあった「堰」が、この地域では最も大きいものだった。堰の近くでは水車小屋で精米したり、子どもたちは水遊びや魚捕りに興じた。戦後になると堰はコンクリート製に替わり、堰普請も行われなくなった。魚が棲み田畑を育てる用水路であった川は、開発に伴い近代的な河川に改修され、今は石で固められた排水路となっている。息づく川の証しでもあった川面のきらめきや水音は、田園風景とともに遠い日の記憶の中で綴られている。 2000.5.1号掲載
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たまには多摩語り 多摩の竹【養蚕に欠かせない竹】
- 2000-04-01 (土)
- たまには多摩語り
かつて多摩地方には、いたるところに竹やぶがあった。竹は大変な勢いで根を伸ばす。地中に竹の根が張り巡らされた竹やぶは地盤がしっかりしていることから、「地震が来たら竹やぶに逃げ込め」などと言われる。日本には約150種類の竹があると言われているが、多摩地方は、孟宗竹、真竹、篠竹の3種類が主で、当時の人々の生活に欠かせないものであった。竹はイネ科の多年性常緑木で、稲と同じような花をつける。筍は毎日成長し皮を落とすので、その皮を拾ってきて水で濡らし、重しを乗せて広げておく。竹の皮はとても丈夫で水分を通さないので、食品を包んだり器の代わりに、また草履などにも使われていた。今ではビニールやプラスチック、金属製品が便利に使われているが、竹の皮に包まれたお弁当には独特の香と情緒があったように思う。多摩地方は幕末から昭和初期にかけて大養蚕地帯であった。農業の中でも養蚕は特に多くの道具を必要とする。竹の箙(えびら)や竹籠など竹を用いた道具が重要な役割を果たしていた。竹がないと成り立たないのが養蚕業だとも言える。冬の間に切った竹は丈夫で保存がきくことから、11月の中旬から2月にかけて、竹やぶから竹を切り出してきて日陰に寝かしておき、5月上旬の蚕の掃立の間に竹で道具を作った。砂利蓑(じゃりみ)や桑つみ用のかご、草刈かご、目なしかご、目つぶしかご、大かご、みそこしなども作った。籠屋という商売もあって、頼まれれば出向いてその家の竹でかごを作った。その商売も養蚕あってこそだったのだから、当時、多摩地域のほとんどの家庭は養蚕業を営むか、または間接的に養蚕に関わりのある仕事を持っていたと言える。その後、人絹や石油製品が台頭してきて、人手のかかる養蚕はすたれていった。竹竿、竹梯子、竹縁、竹箒、竹馬、竹刀、竹槍、建築用材や家庭で使う扇子、うちわ、唐傘、茶道具では茶せん、茶杓、柄杓など、竹で出来たものがかつてはたくさんあった。今でも正月の門松、七夕の笹、お祭りには竹にしめ飾りを飾ったり地鎮祭には竹で四方を囲ったりと、祝い事などに使われる竹。もうすぐ筍も出てくる。筍は出始めに採ったものが柔らかくておいしいと言われ、そばつゆにしたり煮物や筍ご飯にしたりと、さまざまな形で使われる。竹の道具を見ることは少なくなったが、せめて食卓に筍が並ぶ頃には、養蚕が盛んだった頃の多摩地方に思いを馳せるのもいいかもしれない。 2000.4.1号掲載
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