デパートや料亭の高級おせちが完売した昨年の年の瀬。かつて多摩での新年の祝い膳は家長の指示のもと、その家の歳男(主に若い男)がすべて手作りで準備したものだった。暮れも押し詰まった28日または30日に、自分たちで作った米で餅をつき、29日~30日には鏡餅をそなえ、切り餅を作る。明けて元旦の朝、歳男は早起きして井戸からその年初めての「若水」を汲み、里芋や大根の入った醤油仕立ての雑煮を作る。それを神棚に供える頃、女性や子供たちも起きてきて、揃って雑煮とお屠蘇で新年を祝う。その後、家の表から座敷・廊下・天井まで一家総出で磨き上げ、縁側に火鉢と座布団を用意して近所からの年始の客を待つ。菩提の寺への挨拶を済ませた歳男は、近所の家々へ年始回りに向かう風習があった。それもやがて鎮守のお宮に集まって顔を合わせる程度になったが、10~20軒を訪ねて新年の挨拶を交わしていた。正月2日からは、親戚同士で行き来するが、そこで一子相伝で守ってきた歳男自慢のおせち料理が登場する。口取りはさらし餡と棒寒天や砂糖を混ぜて固めた羊羹、山から掘ってきた山百合の根のねっとりしたきんとん、砂糖醤油とゴマで照りを出したきりいか、キンピラ、ハスの煮物や手打ち蕎麦もお膳に並ぶ。瀬戸物の三段重には酢だこや数の子などの酒の肴が詰めてあった。野菜はもちろん醤油など素材からほとんど手作りだったが、日々の辛い農作業に比べれば料理は男性にとって遊びにも等しいもので、台所の主と化した家長が采配をふるっていた。台所の天井には、お歳暮にもらった新巻鮭が猫などに食べられないよう吊るされており、その本数からその家の暮らし向きを図ることができた。女性たちは普段できない繕い物や洗い張りを、子供たちは工夫を凝らした手製の羽子板や凧で外を駆け回るなど、思い思いに正月を過ごした。その当時の腕に覚えありの向きも、今では奥さんやデパートの「手作り」の味を楽しみ、寝正月を決め込んでいるのかもしれない。微笑ましい情景であるが、うたた今昔の感に堪えない。多摩ニュータウンから農業は姿を消したが、先達は同じ土を踏む私たちに現代にも通じる知恵や礼節など多くの置き土産を残してくれたようだ。 2002.1.1号掲載
‘たまには多摩語り’ カテゴリーのアーカイブ
たまには多摩語り おせち料理は歳男が作る
たまには多摩語り 酪農と言えば由木村(井草甫三郎氏の業績)
由木村は、その昔万葉の歌人によって「多摩の横山」と歌われた、なだらかな丘陵地帯のほぼ中央に位置する。明治22年、上柚木、下柚木、鑓水、中山、松木、大沢、堀之内、越野、中野、大塚、別所、の11の旧村が集まって発足し、新しい村づくりが始まった。村の中枢部をなしていたのは、現在の由木中央小学校や由木農協などが並ぶあたりだ。農協のわき道を登っていくと、禅宗古刹の永林寺がある。正面に朱塗りの門がある。数年前までこの山門にかぶさるように枝を張った巨松の下に「牛魂碑」が建っていた。今は本堂に向かう最後の門、中雀門を入って左のところに移されている。この「牛魂碑」は、由木村がかつて日本の代表的な酪農村であったことを物語っている。碑は、当時82才の井草涛翁の書によるもので、昭和25年4月8日、由木村授乳者一同が建てたものである。松涛は、多摩酪農の創始者である井草甫三郎氏の号。早くより漢学を志し14才で漢学者村田直景に師事した彼は、「男子困を守ることなかれ、銭なければよろしく事業を興すべし、一牡牛飼いうれば五の子牛を得ん。子牛子に子を産んできわまりやむことなし。富は遂に君候と相似たり」という詩に感銘し、畜産への眼を開かされる。農業、畜産ほかの読書をよくし、北海道の酪農の先覚者とも交わりを深くした。そして、由木村の豊富な草で乳牛を飼い、その糞尿を土地に施して農作物を増産し、同時に、人類最高の食品である牛乳を生産する『酪農』こそ家や村を興す基であると確信する。明治40年、先進地の千葉より雌の子牛1頭を買い入れ、牧草の種も北海道他から取り寄せて、畑や畔・土手・空き地に蒔き、トウモロコシも栽培した。豊かな草で子牛はすくすくと成長し、やがて元気な子牛を産んだ。牛乳も近隣に配っても余るほどであった。地震を得た彼は、千葉をはじめ岩手や北海道から次々と優良牛を導入していく。これが多摩の酪農の始まりであった。農家に子牛を貸し付けたり、買い入れの斡旋をはかる。ついで畜産組合を組織し、牛乳の共同販売を企画、当時の東京府庁や農林省に日参して陳情を繰り返し、補助金を得て各町村に共同搾乳所を設けた。さらに品質管理のため近代的な設備の中央処理場も設置するなどして事業を成功させ、酪農を三多摩全域に広めた。牛といえば井草、酪農といえば由木村と言われるほど、全国に知れ渡り、日本の酪農の指導的役割を果たした。 2001.11.1号掲載
たまには多摩語り 源耕地(げんごうじ)の怒り井戸【乞田川水源の伝説】
豊田―堀之内―唐木田(都道155線)を結ぶ通りが唐木田3丁目で尾根幹線と交差する辺りは、源耕地と呼ばれた。周囲を山で囲まれた谷合いは低地で杉の木などが茂る、昼なお薄暗いじめじめした人の近づかない場所だった。現在は大和証券研修センターや東京三菱銀行情報センターのある地域だが、いくつかの民話が残っている。「源耕地の怒り井戸」は現代にも通じる不倫が招いた話だ。平凡に暮らしていた家族3人の家に、旅の僧が現れ一夜の宿を乞うた。良くしてくれる家族に、僧は旅に出なくなり、奥さんに好意を持つようになった。やがて、ただならぬ仲となった二人は、子供を奉公に出し邪魔になった夫を二人で殺し井戸へ投げ込んだ。素知らぬふりをして暮らしていた二人の所行は公の知るところとなり、谷間にあった1本の松に磔の刑に処された。松は久しくその場所にあったが、今は枯れてない。僧の名は源五郎、なまって辺りは源耕地と呼ばれるようになったという。磔後、二人は2つあった井戸にそれぞれ投げ込まれたが、清浄な水を汚された井戸の怒りは深く、ごうごうと水を噴き出すようになった。村人たちは恐れて、誰もその場所へ近づかなくなってしまった。いつの頃からか、誰が建てたか源耕地には供養の碑が建てられていた。その付近には「影取り池」の伝説も残っている。池は流れる雲と木々を映し、深い谷間で静まりかえっていた。しかし、峰を歩く旅人の姿が池に映ると、影ごと人も一緒に池に吸い込まれてしまうのだ。池の主の龍が乙女に化けて溺れたふりをする。旅人が助けようと池に近づくと龍に食べられてしまったという説が一つ。落城し先立った夫を追って身を投げた奥方と侍女のすすり泣きを聞いた旅人が池に近づくと吸い込まれてしまう説。どちらも僧侶が丁寧にお経をあげたところ、それぞれ昇天することができ、以後旅人は引きずりこまれなくなったという。山に囲まれた木の鬱蒼としげる源耕地は、このように不気味な言い伝えが残る、日の当たらない湿地だった。しかし、豊富な水量を抱いていた源耕地近隣の伏流水は、中沢の池となったり、唐木田の菖蒲園を潤し花の名所とした。また、その流れは鶴牧西公園や川井さんのしだれ桜の木のそばを通り、稲荷橋付近で中沢からの流れと合流して乞田川の水源となる。先は行幸橋の辺りで大栗川に合流するが、毎年、川沿いの満開の桜並木は私たちに潤いを与えてくれる。コンクリートで固められてしまったニュータウンに住む私たちは、こんな伝説を持つ源耕地を想像することは難しいが、伝説があったからこそ大切な水源が守られていたのだろう。今は昔のお話である。※参考文献 多摩市史叢書(5)、多摩市の民族(口承文芸)、多摩のふるさと風土記図絵、多摩の歴史(7) 2001.9.1号掲載
たまには多摩語り 暑さをしのぐ【やぐらでの昼寝】
真夏の日差しが容赦なく照りつける8月の昼下がり。クーラーや扇風機、冷蔵庫は私たちの生活に欠かせない電化製品となっている。だがこのように便利な現代機器がまだなかった時代、どのようにして暑さをしのぎ、夏を過ごしていたのだろうか。そこには自然を活かした当時の人の知恵と工夫があった。農作物の実りを待つ7月末から8月にかけて、農家は田畑の草取りに忙しい。夏休みに入った子どもたちも手伝いに加わり、麦藁帽子に手拭い姿でぐんと伸びた草を刈る。草取りの合間には、井戸でキンと冷やしたスイカを割って一息つく。乾いたのどを潤すスイカの甘い汁は、本当においしかった。暑さがやわらぎ始める午後3時過ぎまでは昼寝の時間だ。庭に作った高さ2メートルほどの櫓(やぐら)の上で涼をとる。この櫓は2本の柿の木と2本の丸太を支柱にして、すのこ状の板を縄で作りつけ梯子をかけたもので、落下防止のために床の周囲には手すりもつけた。木陰を吹き抜ける風はひんやりとし、また高床の下を風がくぐり抜けていくので、昼寝には最適の寝台となった。子どもたちは大喜びで、おやつや宿題を櫓に持ち込んだ。寝転んで見上げれば、まだ青い柿の実や、木から木へ移動する蝉、蜘蛛が巣を張っていく様子などがよくわかり、格好の自然観察の場にもなった。女性やお年寄りは屋敷の中でも涼しく風通しのよい、北側の板の間で昼寝をした。藁葺き屋根は室内を通り抜ける風を冷やし、身体に当たる涼風はとても心地よかった。8月下旬になると、どこの家でも衣類の虫干しが行われた。座敷の柱から柱へ張った綱に、たんすにしまわれていた着物をかけて風を通す。嫁入り衣装や紋付の羽織、袴など色とりどりの衣類が吊るされ、子どもたちは着物の下をくぐりながら、その由来を尋ねてきた。暑い時期はもちろん一年を通して重宝したのは穴蔵だ。家の裏の土手に、高さ約2メートル、5~6坪ほどの穴蔵を作り桑の葉や野菜などを貯蔵した。適度の湿気と温度を保つ穴蔵は、夏場はナスやきゅうり、スイカなどを2~3日ほど保存することができた。夜には、日中木陰や葉の裏で、なりを潜めていたコガネムシやカブトムシたちが、光を求めて電灯の周りに飛んできた。また就寝前には、蚊を避けるために座敷に緑色に染めた麻糸で編んだ蚊帳を張った。縁台に腰掛けて涼んでいると、ホタルが小さな灯を点滅させながら飛び交う。夜のしじまには、ギャッギャッギャッギャッとトノサマガエルの鳴き声が響き渡った。2001.8.1号掲載
たまには多摩語り 草取り【草むしり・草ころしとも言う】
農家の6月は一年中で一番忙しい。蚕のひき拾いや繭の出荷・麦刈り・田植えの支度など雨が降っても休みがない。稲の植え付けや麦刈りなどが終わる7月になって、ようやく暇ができる。忙しい間そのままになっている畑には、6月の雨で雑草がものすごい勢いで伸びている。作物の周辺に出る草を退治しないと栄養がとられ、豊かな実りが得られなくなる。草取りは朝早くから家族が総出で行う。4・5人が畝の間に入って道具を使わず作物を傷めないように指先に力を入れて摘むように取っていく。そのため、農家の人たちの指は太い。作業は夕方、手元が見えなくなるまで続けられる。畑全体を取り終えるには10日間くらいかかり、最後の畝を終える頃には始めに取ったところにまた新たな草が伸びている。草は限りなく生えてくる。草を取った後は、鍬で「さくりあげた」土を根元に寄せて厚さから守ってあげなければならない。雑草の種類は、地面に根を張るジバリやかやつり草、青い花が咲くツユクサ、黄色い花をつけるハハコグサ、ヒメジオンにカタバミ、タンポポなど20種類以上に及ぶ。取った草は牛や馬の餌となり、この時期は餌を買う必要がなかった。農家だけでは人手が足りず、大工さんや職人などを手伝いに雇うほどに忙しい。畑の次は田んぼの草取りにとりかかる。お湯のようになった田に入り、ブヨやアブなどに刺されながら腰をかがめて雑草と戦う。雑草を摘んでしまわないと、草が実をつけたりする。地味な作業だが、秋の収穫に影響するので厳しい労働に精を出す。桑畑は草かきという道具を使い、日中の一番暑いときに一気に取る。これを「草ころし」と言い昼も休めない忙しさだ。草取りを終えた後は、畑の中耕を行う。畝の間を耕して土に空気を通して作物の根張りをよくする作業に取り掛かる。これを一番耕と言い、一番耕から2・3週間過ぎた頃に2番耕、さらに3番耕で止めざくをする。畑は通る人みんなの目に映るので、隣近所に負けないよう競争してきれいにした。そうして全部の作業が終わるのがお盆の頃である。畑もきれいになり、稲の実りも良く農家のひとたちは、やっとひとときの休養がとれる。 2001.7.1号掲載
たまには多摩語り 【多摩丘陵の雑木林】役割を終えたのか
多摩ニュータウンの土地の八割は、雑木林が占めていた。電気・ガス・水道・化学肥料などない時代、雑木林がその役割を担っていたのである。人が増えても雑木林は増やせない。そこに住む人が増えれば、燃料・肥料・水が不足することになる。よって、子どもが独立する場合、家を継ぐ者以外は同じ生活圏に住まないことになっていたという。その雑木林は自然林ではなく、一部の山主によって農閑期の秋から春にかけて、昔ながらの方法で管理されていた。雑木林の主な木であるナラやクヌギは、12・3年に一度、伐採される。木は薪や炭にされ、落ち葉は冬の間クズハキによって集められ、腐葉土として田畑の肥料にした。ヒジロ(囲炉裏)で燃やした落ち葉などの灰も肥料として使われた。木を切った後、しばらくはクズハキをせず、切り株から出た新芽も自然のままにさせて、伐採から3年~5年後の「もや分け」と呼ばれる時期が来ると、薪や炭になりそうな木だけを残して他は間引いてしまう。山を覆いつくしていた篠竹は、冬の間の内職であるメケエ(目籠)作りの材料に、茅は屋根を葺くのに使われた。薪や炭はぜいたく品で、山主などの上層農家は薪を燃料として使ったが、一般農家の燃料はクズハキによって集められた枯れ枝や落ち葉・笹竹が主だった。炭は八王子や東京方面に売られていき、地元では主にお茶の精製と当時の一大産業であった養蚕の生産量増加のために使われた。まずは、5月の1回目の孵化時、通常6月に孵化する蚕(かいこ)を1ヵ月早く孵化させるため、蚕室の暖房が必要だった。次は、5月に人工孵化させた蚕の掃き立ての時。これも人工的に夏の環境にするための蚕室の暖房に。そして乾燥庫で繭を乾燥させ、中の蛹を殺す作業時の燃料として使われた。また、雑木林はそこに住んでいる人に現金収入をも、もたらしていた。元締めが山主から薪山(まきやま)として山を買うことで山主に収入をもたらし、農家の人たちは元締めに雇われ、木の運搬人となることで農閑期に現金収入を得られたのである。篠竹で作られたメケエも、冬の間のいい現金収入だったらしく、専業としていた人もいた。戦後の急速な石油の普及で、薪や炭が必要とされなくなり、化学繊維の出現が養蚕を壊滅させ、雑木林はその役目を終えてニュータウンに生まれ変わった。地中に様々な管が埋まり、かつての山の斜面や谷を縦横に車が走る私たちの街を、山の神様はどのような思いで眺めているのだろうか。2001.6.1号掲載
たまには多摩語り 【念仏講】女の息抜きの場だった
5月の節句。薬師如来の発見で知られる八王子市別所の長池では、毎年池のほとりでむしろを敷き、大きな数珠を回しながら「念仏」を唱える多数の人の姿が見受けられた。戦後は衰退の一途を辿った念仏講だが、地域に根ざした女の人の年中行事だった。15~20軒の家で1つの「講中」を作り、その中に3~4の五人組があった。その長である五長が、毎年丹沢の大山神社へ代理参拝に行き、講中の軒数分のお札をもらってきたという。田畑の水源を確保しなければ自分たちの食べる物も収穫できないため、地域毎に必ずある講中に入っていない家は珍しかった。葬式を講中全員で執り行なったり、田植えの手が足りないなど何かあった時は、皆で助けに行き奉仕するのが当たり前だった。さて、念仏も各講中単位で行われた。毎月1回の「月並み念仏」のほか、春秋の「彼岸念仏」、家を新築する時の「建前念仏」、葬式の際の「送り念仏」や法要の「頼まれ念仏」など、生活の折々に根付いていた。会合や宴席の多い男に比べ、外出の機会の少ない農家の主婦にとって、夜公認で外出できる念仏講は楽しみでもあった。念仏のある日は畑仕事を早めに切り上げ風呂に入り、夕飯を少し食べて化粧をして普段より良い着物を着て、家紋の入った提灯を下げて目的の家に向かう。一方、持ち回りで「月並み念仏」の順番に当たった家では、朝から部屋の片付けや、料理やお茶菓子の準備に大忙しだった。夜になり、全員が集まって着座したところで、リーダーの年長者が口火をきって鐘を鳴らし始める。そのリズムに合わせて皆で数珠を繰りながら、「南無阿弥陀仏…」などと一心に唱える。喜びや悲しみをのせた声が響き渡り、辺りは神聖な空気感に包まれた。「お釈迦念仏」「地蔵さま」「子ども念仏」「十三仏」「賽の河原」「黒谷の訓」ほか、主に年長者より口伝えされた念仏は人の生き様を描いているものが
多く、詠んでいると有難くなったり心が清められていくものだった。時には同じ念仏を繰り返しつつ1時間半ほど唱え、その後食事をしたりお茶を飲みながら語りあって、ゆるやかに夜が更けていった。嫁いできたばかりの新顔を紹介したり、その地で採れた作物を使って料理を教えたり、と情報交換の役割も担っていた念仏講。声を揃えていくなかで、ゴスペルのようにさりげなく心がふれあい人の繋がりも広がっていった。地縁の厚い八王子市東中野や町田市小山町などでは、新世紀の今なお彼岸念仏が続いており、その頃の時間を切り取ったかのような懐かしい光景が見られる。2001.5.1号掲載
たまには多摩語り 【多摩丘陵の山桜】加工用に使われた樹皮
桜前線北上中。今年も花見の季節になった。満開の桜の下で酒や弁当を囲む花見は今に始まったことではない。文政3年(1820年)に書かれた「武蔵名勝図会」には、当時から小金井桜が花見の観光客で賑わっていたとの記述がある。玉川上水の両岸に桜が植えられたのは、桜の実が水毒を消すといわれ、市民の生命に関わる上水の安全性が目的だったようだ。日本国花でもある桜は各地で見られ、野生種・栽培種をあわせて300種類以上と言われる。冬に咲く四季桜、6月に咲く高嶺桜、いろいろあるが、花見と言えば春のソメイヨシノが一般的だ。しかし多摩丘陵で桜と言えば、多摩市の市花であるヤマザクラであった。ソメイヨシノと比べて花が小さく可憐なヤマザクラは、わずかに残った山に今でも見ることができる。昔はこの辺りではどの家も、自宅の裏山や近所に野生のヤマザクラがあり、わざわざ花見に出かけることもなかった。田畑で働く男たちに女子どもが弁当やお茶を届けて、皆で食べた。それは、花見にも劣らぬ家族の楽しいひとときであった。また、農作業に関して、桜の開花時期は重要な目安だった。桜の開花の早い・遅いによって、自然のサイクルを読み取り、農作物の種を蒔く時期が変わるからである。桜の樹皮は茶筒や咳止め薬になったり、蒸籠・ふるいなどの合わせ目を縫ったり箕の先を強化するのに用いられた。硬い性質は彫刻に向き、大木は国会議事堂の演壇などにも使われている。一般に桜炭と呼ばれるクヌギの炭は、火力・日持ち・火鉢で手を温める感覚ともに優れた上等な炭であるが、桜は炭に向かない木だ。忘れえぬ多摩丘陵の原風景とは、松と桜の調和によるものだ。常緑の松林の間にヤマザクラがポコポコと咲いている光景…戦前の養分の少ない尾根には松があり、その下にヤマザクラ、山すそには杉や竹が生えていた。それが戦時中になると、燃料になる松根油の需要が増えて伐採されたり、松くい虫の被害により、松の木は多摩丘陵から姿を消した。ヤマザクラも、開発によって雑木林とともに消える運命をたどった。ソメイヨシノも良いがこの春は、“古来より多摩で生き抜いてきたヤマザクラを愛でる”というのはどうだろう。 2009.4.1号掲載
たまには多摩語り【屋根替え】近所や親戚の手伝いで賑わう
多摩ニュータウンの街並みというと、整備された幹線道路に整然と並ぶマンション群をイメージする人も多いだろう。しかし、昭和30年頃までは、多摩丘陵には日本民家の原型ともいえる茅葺(かやぶき)屋根の家がたくさん残っていた。茅葺の屋根は、夏涼しく冬は暖かい。防音効果があり雨音がしないなど優れた特徴があった。しかし、その維持は決して容易なものではなかった。茅葺屋根は頻繁に葺き直さなければならない。葺くためには、費用もかかるし手間もかかる。春の彼岸から農家は忙しくなるため、農閑期の正月から3月の彼岸までが屋根の葺き替えのシーズンだ。準備は材料集めの茅刈りから始まる。11月に茅が枯れた直後から木刈り鎌で刈る。落とした葉で一束ずつ結わえておく。更に5束をひとつにくくり、馬で1駄ずつ運んだ。屋根に乗せる茅を結わえるには、竹と縄が必要だ。それらも茅と同時に準備を始める。竹は11月から2月に刈ると虫がつかないと言われている。縄は、はかま(葉)を取り除いて水を吹き、石の上でたたいて柔らかくしてから結う。毎晩の夜なべが続いたそうだ。屋根の葺き替えには大量の茅が必要なため、一度に替えるのではなく、少しずつ替えるのが通例だった。特に、陽に当たらない北側の屋根は傷みやすい。一部分または破損箇所のみ葺くのを「手直し」と呼んだ。全部葺き替えるのは「まるぶき」と言い、隣近所や親戚が手伝いに集まり、賑やかでちょっとしたお祭りのようだった。屋根替えの主導権を握るのは、当時部落に2~3人いた、屋根裏いわゆる屋根職人である。紺木綿の腹掛股引に長袢纏(はんてん)を着て、手拭いや頭巾で頬かぶりをしている。彼らが屋根に登り、下から順番に葺き替えていく。家の者や手伝いが屋根下から屋根屋の指示に従って茅の束を渡す。この手伝いのことを「地こすり」と呼んだ。終わると皆で酒を酌み交わし屋根替えのお祝いをした。茅葺きの屋根は30年持つと言われている。囲炉裏で火を焚き煙が屋根裏に廻ることで、茅にススがつき、水を通さなくなるそうだ。真ん中に家族が集まる囲炉裏があって、その上にどっしりとした萱葺きの大屋根が構えている。現在、全く見られなくなった日本人の原風景が、ほんの30余年前にはここにあったのだ。たまには、そんなことを考えながら多摩ニュータウンの近代的な街並みを歩いてみたらどうだろう。 2001.3.15号掲載
たまには多摩語り 【電燈の灯った日】電気料の集金は青年団が
関東大震災から2年後の大正14年3月24日、玉南電鉄線(現京王電鉄)が府中~八王子間に開通し、多摩村の北端部を初めて電車が走った。同じ年の4月15日、関東配電(現東京電力)がかねてからの工事を終え、多摩村全域に電灯がつくことになった。その夜、各家では家族全員が注目するなか、厳かに電球のスイッチをひねる。ぱっと辺りが明るくなり、部屋の隅々まで煌々と照らし出されるのを見たとき、皆「世の中が変わった」と思った。その頃の明かりといえば石油ランプだった。火の部分を覆うガラス製のほやは油煙ですぐに黒く煤けてしまう。汚れたほやの掃除は、当時の子どもたちの大事な仕事とされていた。ランプは皆が集まる居間と台所などにしかなく、灯す時間もせいぜい2・3時間と限られていた。電灯が灯り、部屋の中が見違えるほど明るくなって夜なべ仕事もそれまでとは比べ物にならないほど多くできるようになった。特に多摩・由木などの村では篠竹が得やすいことから、目籠やざるなど竹製品の生産が一気に増えて全国に販売され、主要な副業となった。こうして、生活に大きな変化をもたらした電灯であるが、各家で使用した電気料の集金は、青年団に全て任されていた。当時の青年団は20歳から25歳までの若い男女で組織され、講習会・講演会などの文化的な催しや副業品の品評会、運動会などが盛んに開かれ、若者が大人としての礼儀や社会性を自然に身につけていく場となっていた。活動資金として団員から会費を集めたが、関東配電からも団員が集めた電気料金の一定割合を手間賃として支払われたためそれも活動費の一部となった。お金を扱うことなので集金するときは必ず2人連れと決まっていた。夜仕事を終えてから、手に提灯を提げて村の家々を廻って歩く。「こんばんは。電気の集金に伺いました」と、まずは青年団員としてのきちんとした挨拶から始まり、「今月は電気代が多いが、計算間違いはないか」などの会話をきっかけに、ちょっとした世間話をする。村の人に顔を覚えてもらう良い機会でもあった。集金先の家に若い人がいる場合は、団の催しを知らせたり入団を勧誘して組織の拡大を図ったりなどもした。夜なのでお互い気持ちもゆったりとし、その家の人と遅くまで話し込むこともあり、そんなことが縁談へと発展することも決して珍しいことではなかった。 2001.3.1号掲載
たまには多摩語り 【養豚】子豚市場開設
昭和25・6年頃のこと、多摩村農協組合長の相沢さんが都道(現在の多摩ニュータウン通り)で雄豚を追う姿が見られた。都道といっても砂利道なので、豚は足に砂利が食い込まないよう端のやわらかい草の生えているところを選び、駆るでもなし歩くでもない一定の速度で休みもせず進んで、雌豚の待つ養豚家のところへまっしぐらという感じである。組合長のいでたちはというと、襟無しのシャツに胴巻き姿で、およそ背広とネクタイ姿とはかけ離れていた。篠のムチを持って豚の後を追っていた光景を記憶している人もいることだろう。この頃、農協の経営は危機に陥っていた。組合長をはじめ理事の横倉さんや役員は、連光寺・乞田・落合など各支部に農協の経営危機を訴え、養豚や野菜栽培の普及を熱心に訴えて廻った。高額で飼育が大変な乳牛より手軽に飼育できる豚や鶏など飼いやすい家畜を飼ってはどうか。堆肥は農作物に利用でき、餌は残飯でもよいし、世話は女子どもでも出来て育てやすいということからだった。農協役員が各支部に熱心に話して廻った結果、農家の養豚熱は高まったが、家々に雄豚を連れて行く種付け方法では能率が上がらなくなった。そこで、相沢さん・横倉さん・井上さんは立川農事試験場で人工授精師の資格を取りに行った。合格した3人のうちでそれを仕事にしたのは横倉さんだけだった。血統証つきの雄豚を購入し、落合家畜人工授精所を開き、養豚家の要請に応えて精子を持って東奔西走した。種付料として生まれた子豚を1頭、生後2ヵ月位の離乳したものを引き取った。横倉さんが村会議員をしていた時、議会開催中、自分の机の下に豚の精液が入った魔法瓶を置いていたところ、中身を知った同僚から奇異な目で見られたこともあったという。乞田で豚屋と呼ばれていた伊藤さんは、子豚を貸し付けたり肥育した親豚を買い上げたりする仕事をしていた人。農家に貸し付けた子豚を半年後、キロ当たりいくらで買い戻し、育てた人には子豚の貸付料を差し引いて代金を払った。昭和27年、多摩村農協で子豚の競り市が開かれるようになり、農家で生産された子豚を持ち寄り、買いたい農家の人や業者が集まり、競り落としていった。競り市は農協の庭に高台を設け、その上に四方金網で囲んだ枠を置き、その中に1頭づつ入れて競りに賭けた。残念ながら、この市場は後に町田市小山田に常設の市場が出来たため定着しなかった。養豚熱は盛んになったが、この地域の一大産業だった養蚕ほどには伸びず、一家を支える収入を得ることは出来なかった。50年も前の風景であるが、今ではこの子豚市場があったことさえ分からない。だた、この時代にも新しい地場産業の育成に努力していたことは評価できると思う。2001.2.1号掲載
たまには多摩語り 【嫁入りの行事】結婚式を御祝儀と言った
農閑期の1月から3月、農家では結婚式の時期だった。縁談のまとめ役をする人をハシカケと言い、話がまとまると双方の家では仲人を決め、吉日を選んで酒などを持って行き婚約が成立した(クチガタメ)。イイノウ(結納)には、仲人・ハシカケ・親戚代表等が奇数で、つの樽・はさみ箱に名刺や土産品を入れて先方に持参し、この時に結婚の日取りや人員などを決めた。昔は結婚意識を御祝儀と言い、家と家とを結びつけるものだった。当日の午前中または午後早目に仲人夫妻・婿・親戚代表・組合代表等が相手方の両親への土産や半紙に婿の名前を書いた名刺などを持参し、提灯をさげていく。これをシンキャク(新客)と言い、嫁方ではご馳走で迎えた。婿が引き揚げた後、華美な振袖に角隠しの盛装をした嫁とともに、嫁方は提灯をさげ土産を持って婿の家に向かう。嫁が出た後の実家では、戻り返らないようにと座敷を掃き出した。婿は嫁が来ても出迎えないが、婿入りの場合は嫁が婿を出迎える。婿の家に着くと、火が付いたたいまつを持った男の子と女の子がトンボグチの左右に立ち、嫁はこれをまたいで勝手口から家に入る。この時、嫁の頭上には、高望みをしてはいけないとの意味で、蛇の目傘がさされる。嫁側の客人は玄関や表縁から入り、持ってきた提灯は火を消さずに嫁側と婿側の祝言の挨拶が終わるまで表口に並べておいた。座敷では、床の間を背にした正面に両仲人の男が坐り、その左右にハシカケ、縁側を背に婿と男の客人、向かい合って嫁と女の客人が、それぞれ席順に従って坐る。嫁の左右には両仲人の夫人が坐り、嫁の面倒を見る。下方中央には祝宴の司会をするオショウバンが2人座した。最初に礼酒(冷酒)が出され、オショウバンから始まり左右同時に杯がまわされ、次いで燗酒がまわされる。披露宴では3回吸い物が出され、嫁は色直しに3回着物を着替えた。酢の物と蕎麦が出されたら、祝宴も終盤。プッツワリボタモチが客人に出され、嫁と婿にはオタカモリ(椀に高盛りした飯)が出る。最後に嫁が茶を出して式と祝宴は終わりとなる。翌日、嫁は角隠し姿で組合の老女に付き添われ、半折の半紙に名前を書いた名刺を持って近所に挨拶してまわった。嫁入り道具は、紋付・留袖・晴れ着など一生分の着物を入れたたんす、2組の寝具を入れた長持、下駄箱、たらい、張り板、断ち板、針箱、鏡台、小物類ははさみ箱に入れて、嫁入りの前日に荷車で運び、荷造りに用いた菰・縄などは、嫁が実家に帰らないようにと、すべて持ち帰った。 20001.1.1号掲載

