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乞田川~多摩を潤した川~連載⑬ 矢口 優

かつてはウグイもいた…

 「今思い出しても嬉しいのは、小学生の頃、子守りをしながら釣りをしていた時に、30センチはあるウグイがかかったことだよ。この辺りではホンバヤって言ってたね。乞田川じゃなくてこの辺の支流(現在は暗渠になり、上は瓜生せせらぎ散歩道になっている)にも、そんな大きいのがいたんだ。春には真っ赤になるきれいな魚だよ」。
 「カニもいたなあ。モクズガニって、毛が生えているのが。モクゾウって呼んでいた。美味しかったぞ。川の横穴にいるのを捕まえるんだ。でも手なんか入れたら大変だ。白い爪で指を切られてしまう。どうやって捕まえるかって?糸の先に鉄の釣り針を結んで、餌(みみずやどじょう)を付けて一晩置いておくんだよ。それで、翌朝捕りに行く。でもすごいやつは、釣り針を爪で折っていたよ」。
 「他にウナギやギバチ(なまずの一種できれいな所に棲む)もいたな。ケエボシとかカイボシ(水を掻い出して干す)とか言って、水の流れを変えて水のなくなった川から捕えた。でも、ケエボシはこの辺(支流)じゃないとできない。乞田川で一度やってみたけど、とんでもない。水の量が多かったから、掻いても掻いても水がなくならなかったね。乞田川は蛇行していて、カーブしているところに魚がいっぱい溜まっていた。流れのスピードが弱まるところだからね。中には深さが2~3メートルなんていうところもあったよ。ちょっと雨が降ると増水してね。家の床を高く造った家もあったくらいだ」。
 「川の水は本当にきれいだった。鎌倉街道(現在コープ建設中の辺り)に昭和牛乳があったろう?あそこでは、牛乳瓶を川で洗っていたんだよ」。
 ずっと貝取に住んでいるというお2人の方に、昔の話を伺った。意外だったのは、こんなに水と親しんだ生活をしていたのに、泳げない、というところ。手を伸ばせば、ちょっと潜れば相手(魚)がいたから、泳ぐ必要性がなかったのか。
 「そうだったそうだった」と、一方が語ればもう一方が頷く。お2人は、まるで昨日のことのように話してくださるので、それを聞く私の頭の中に、見たこともない昔の乞田川が流れ込んでくる。人間と魚や川が、あの手この手を使って相手に負けまいとする情景が。
 まだまだ話は尽きず、次号は、この辺りにたくさんいたというマムシの話へと続きます。  090701号掲載

乞田川 多摩を潤した川  連載12 ~矢口 優~

整備された乞田川(永山駅北)

 乞田川が変わるかもしれない。水辺と街が融合し、良好な空間に生まれ変わるのだ。
 国土交通省は本年度より「かわまちづくり」支援制度を創設した。対象は、国内約100本の中小河川。乞田川は、都建設局河川部より「この制度の適用を受けて乞田川の緑化・親水事業を市と共同で取り組みたい」との申し出があったため、東京都と多摩市の両方から申請される。
 水辺の施設整備など(設計・施工を含む)いわゆるハード面は都が役割を担い、地元調整は都と多摩市で行う。「昔みたいに蛍を飛ばしたい」とか「水車を復活させたい」と常々思い続けていた、昔の乞田川を知る人の出番だ。
 場所は、乞田の「新大橋」から多摩センター近くにある「上之根小橋」の間。桜並木が大きな道路に分断されているところには、アンダーパスが設置される。ついでに、歩道のでこぼこがなくなれば車椅子やベビーカーなどを利用する方や遠方からぶらりと訪れた方にも、川沿いの散策がより快適になるかもしれない。
 川の段差が魚道に変われば、大栗川・多摩川との連続性が確保される。昔のように鮒や鯉が川に泳ぐ姿を目にする日が来るかもしれない。
 「かもしれない」が続いたのは、私がなんだかぴんと来ないから。ニュータウン育ちの私にとって、川は山奥の危険な存在か、海まで流れていく途中経過を横目で見るもの、つまり水だ。「春の小川」や「めだかの学校」なんて歌を習ったけれど、未だこの風景を見たことがない。石を飛んで川を渡る、なんて経験も少ない。
 乞田川流域では、地元住民や市民団体の活動が活発だ。お祭りや行事も多いし、河川の清掃活動も毎年実施されている。小学生などを対象に、水辺の生き物観察も行っている。
 対象となれば、国からは地域づくりのためのフォローアップなどソフト面についても支援される。イベント施設など水辺の空間を活かした賑わい創出のための河川敷占用許可の緩和、情報の提供があるというのだから是非実施してほしい。
 川の水が一定量貯まるとカラクリ人形が動く、なんてところがある。小平グリーンロードにはごみ焼却場の余熱を利用した足湯がある。多摩がふる里になる人はたくさんいるはずだ。人が笑顔で行き交う「かわまち」になったらいいな。  090601号掲載

乞田川 多摩を潤した川 連載⑪ 矢口優

 「乞田」という名前はどこから来たのだろうか。
 乞田大橋の辺りに鎌沼という地名があった。そこには昔、文字通り鎌の形をした周囲1㎞もの沼があった。土砂や枯れた草木が溜まった湿地帯で、ガマなどの植物も茂っていた。村人はここを干拓して耕地にしここを治めていた殿様に「少しの田でもいいから耕させてほしい」と乞うた。そこから「乞田」と呼ばれるようになった、という説が一般的なようである。
 そしてもう一つ。南北朝末期の文書(1383年の鶴岡八幡宮文書)に、この辺りが吉富と記されていたことから、ヨシトミ→キットミ→キット→コッタ(乞はキツとも読む)となったという説もあるのだとか。
 桜一色だったニュータウンが若草色に変わる頃、乞田貝取ふれあい公園を訪れた。乞田川に鯉のぼりが泳ぎ始める日だ。「何が大変だって、この柱を立てるのが大変なんだよ」。川沿いの桜の幹にゴザを巻き、そこに柱を添えて縄で結ぶ。こっちの柱と川向うの柱にワイヤーをかける。そこに間隔を取って鯉のぼりを付けた紐を渡す。もちろん作業の前には塩・酒・お米でお清めだ。
 鯉は大きさも色も実に様々。「農家だった近所の方が持ってきてくれたんだよ」。大きくて流線形の鯉はそんな家にいたのだろう。古いゆえに柔らかいからか、風が吹くたびに美しく泳ぐ。他には買い足したものもあり、多摩センターのお祭りで使わなくなったものも譲り受け、大漁だ。
 鯉のぼりは、我が家に男の子が誕生したのを天の神に知らせ、「この子を守ってやってください」と守護を願って目印にしたのが始まりだといわれる。なぜ鯉なのか。鯉は清流でなくても池でも沼でも生きていけるので、生まれた環境にかかわらず逞しく育つように、という意味が込められているようだ。中国にも鯉が竜門の滝を登ると竜になり天をかける、という故事があり、そこから登竜門という言葉が生まれた。今も健やかな成長と立身出世を願って飾られているはずだ。
 乞田川は、今も下流に鯉が住む。川の流れは直線で味気ないが、その上は青くて自由だ。五月の空に鯉が泳ぐのは本当に美しい!
 結局この日は、乞田商店会と乞田貝取ふれあい館の方々が、一日がかりで鯉たちを青空に解き放ったのだった。お疲れ様でした。
※参考文献…「大栗川・乞田川 流域の水と文化」「多摩市の町名」 090501号掲載

乞田川 多摩を潤した川~連載10  矢口 優

 乞田川が最も美しい季節を迎えた。全長4㎞程の川の両岸にはなんと539本の桜の木が植えられている(数えてみました。誤差があったらゴメンナサイ)。
 起伏に富んだ多摩ニュータウンはこの時季、ちょっと高い場所に上がれば、小さく霞むピンク色をあちこちに楽しむことができる。そんな中でも乞田川の桜は別格だ。
 多摩ニュータウン誕生の頃に乞田川も整備され、桜が植えられた。すっかりコンクリートで固められているものの、もちろんその下は土だ。さすがに川沿いだけあって、山から栄養分が土とともに流れて堆積したのが実感できる力強い美しさだ。なかには若い木も混ざっているが、一人では抱えきれないほど太く大きくなった木が、象の足のように並んでいる。  
 30余年を経て、歩道は桜の根っこで盛り上がりデコボコしている。ベビーカーや車椅子の方がここを通るのは、大変なのではないだろうか。うちの子どもは、自転車でハンドルを何度も取られては転んでいる。それでも桜のトンネルをくぐるのは楽しいようで、涙も乾かないうちにペダルをこぎ出す。残念なのは途中何度か道路に遮られて迂回すること。ちょっと興が覚める。
 永山橋付近ではこの冬護岸工事が行われ、100m分の岸が美しくなっている。一級河川なので、工事費は市ではなく都から出ている。「憩いの場」「人々に親しまれる河川空間」をという名目でコンクリートが隙間なく並べられた様子は、デパートの中によくある水路のように美しい。 
 上流の2カ所では桜まつりが行われる。どちらも4月5日だ。
 多摩センター駅北側の長久保公園では太鼓やよさこい踊りが見られ、お茶会に参加できる。この辺りでは平成14年から数年間、川魚の稚魚を放流したことがあった。鮒や鯉、ドジョウであるが、鴨が水中を熱心に突いているのを見ると、川に何か棲んでいるんだな、とちょっと嬉しくなる。
 乞田ふれあい公園では出店が並び、琴やお囃子が楽しめる。こちらでは桜が終わる頃、鯉のぼりが川の上を泳ぐ。その作業が4月19日に行われるので見に行きたい。
 どちらも近隣の商店会の働きかけがあってのもの。素敵な「親水」行事だ。 090401号掲載

乞田川 多摩を潤した川連載⑨ 矢口 優

昭和初期の頃の行幸橋

 ニュータウン通りを通ってみると多摩市内の交差点だけでも「~橋」という表示が多くあることに、お気づきだろうか。西から多摩山王橋、上之根橋、乞田新大橋、永山橋、諏訪下橋、熊野橋、行幸橋、新大栗橋。これらはもちろん、道路の南を流れる、乞田川にかかる橋の名前に因んでいる。
 昔から使われている地名を取って付けた名前ばかりだ。中でも「行幸橋」に、昔の人の思い入れの強さを感じる。
 連光寺にあるその橋は、かつて明治天皇が渡られたことから、「行幸橋」と名付けられた。
 当時、国務に多忙な陛下の身を案じた側近が、皇居に程近い所で養生していただきたい、と選んだのが多摩丘陵だった。そもそも聖蹟桜ヶ丘という駅名も、天皇が行幸されたのが由来だ。
 時は明治14年から17年。今とは比べようもない小さな橋を、御一行が列をなして進まれる様子は、多摩村の人々にとってお伽絵のようだったのではないだろうか。在位中、道楽のために皇居を離れたことがほとんどなかったと言われる陛下であったが、この地には4度行幸されている。冬には兎狩り、春から秋には鮎釣りをされたとのこと。いかに心安らぐ自然豊かな場所であったか、桜ケ丘公園や大谷戸公園を訪れたことのある方なら頷いてもらえるだろうか。
 大正天皇、昭和天皇も東宮の頃に行幸され、昭和五年には、多摩聖蹟記念館が開館した。敷地には桜や梅、ツツジ等が植えられ、四季を通じて来館者を出迎えてくれる。ドーム型の記念館には明治天皇の馬上姿、使われた品々などが展示されている。当初並べられていた物のうち、実は、戦争のどさくさで紛失したものもあるのだとか。
 話は戻って、行幸の際休まれた場所(行在所)が、当時の多摩村長である富澤氏の家だ。こちらは平成になって、多摩センターにある多摩中央公園内に解体の上運ばれ、旧富澤家として復元された。18世紀中頃から後半に建てられたという旧富澤家は、市の文化財として、保護・公開されている(使用可。要問合せ)。どんな季節に訪れても、しっとりと重厚な趣があり、駅周辺の喧騒を忘れさせてくれる。昔の面影が今も、形を変え場所を変えて残っている。※参考文献「多摩聖史」 090301号掲載

乞田川 多摩を潤した川 連載⑧ 矢口優

小さな谷戸から流れ出た清水は曲がりくねった乞田川となり、田を潤した。

 乞田川沿いの田は、多くが谷戸にあった。この辺りは、特に冬は日があまり当たらないので、大抵は一毛作で、冬は田んぼもひと休みだ。それでも山から浸み出す湧き水で、田んぼはいつもじめじめとしていた。寒い日には10㎝はあろうかというタッペ(霜柱)が出来たという。そんな寒い場所にも生き物が棲んでいた。
 田んぼにいる巻貝「タニシ」が、秋の終りに泥の中に潜って冬眠している。もう少し暖かくなれば、それらは目を覚ましてごそごそと動き始める。どこにこんなにいたかと思う数のタニシが泥を這い、田んぼに模様を描く。
 そうなると子どもたちの出番だ。忙しい大人達に代わって、タニシを捕る。タニシは貴重なタンパク源だ。桶を持って、ズブズブと足の沈む田に入ると、逃げ足の速いタニシはあっという間に泥の中に潜ってしまう。子どもたちも負けまいと、目ざとく見つけては捕った。小さいのは子貝なので、まだ捕らない。大きいのだけ捕まえる。
 捕ったタニシは、殻ごと大鍋で茹でた。茹で上がると、貝のふたに竹串を刺して身を抜く。これを佃煮にしたり、味噌汁に入れて食べた。
 乞田川の堰から田んぼまで堀が造られており、その土手にはフキノトウ、ナズナ、ノビル、ホトケノザ、セリなどが自生していた。
 春の七草で知られるセリが美味しいのも今頃。2、3月頃のセリは、色は茶色く葉が地面に添うように広がり、最も香り高い。まさしく「旬」のものだ。当時は子どもも鎌を使って、根元から刈った。セリは、4月を過ぎると色が緑に、茎も上へと伸び風味は落ちてしまう。香りや色の変化、触れた感じだけでなく、味覚からも季節が感じられた時代だった。
 この辺りには行商が月に2~4度ほど訪れたが、魚はあっても貝は売れないからか、持って来なかった。貝といえばタニシか堀にいたシジミで、それしか食べたことがなかった。
 あんなにいたタニシは、昭和20年代に農薬を使うようになってからは見なくなった。そして、田んぼも姿を消した。
 今、乞田川沿いの植物で食べられるものは…。ヨモギ、ツクシ、桜の実?間違いなく国産ではあるけれど、愛でるくらいがせいぜいであろうか。丸みを帯びてきた桜のつぼみが、タニシの“子ども”に見えなくもないI? 090201号掲載

乞田川 多摩を潤した川⑦ 矢口 優

中沢池

 多摩ニュータウンは坂が多い。徒歩や自転車で移動するには、ちょっとした覚悟が必要である。この辺りは、開発の際ブルドーザーで均されたとはいえ、もともと尾根と谷戸が交互に現れる、起伏に富んだ場所なのだ。
 乞田川には、南側の谷戸から幾つもの川が流れ込んでいた。それらの川は、両岸の田んぼと集落を潤してくれた。けれども開発で山が削られ土がコンクリートに変わると、地面は水を抱えなくなり、水量は激減した。
 乞田川沿いを歩くと、合流する水路が多いことに気づく。谷戸の名残りだ。吉祥院の辺り、八幡神社の辺り、鎌倉街道の辺り、永山駅前を下った辺り、馬引沢の辺り、大谷戸公園の辺り…。そう、今は通りになっているところが谷戸の流れていたところなのだ。鎌倉街道の東側にある「瓜生せせらぎ散歩道」という水路など、乞田川同様に大変身している川もあれば、大谷戸公園のように「これぞ谷戸」という場所もある。
 かつて谷戸だった道を通る車を目で追っていると、「流通」という言葉が浮かんでくる。時代と生活の変化は、流れるものさえ変えてしまうようだ。
 川の上流には、水不足に備え、溜池が造られたところもあった。それらも開発のために田んぼを潰すと不要になり、埋め立てられて公共施設へと変わった(旧南永山小学校・現在の南永山社会教育施設や永山南公園など)。ちなみに永山南公園に建つ鉄塔は、溜池があった頃から同じ場所にあるそうだ。
 ニュータウンで有名な溜池といえば、長池公園(八王子市別所)内の築池だが、実は乞田川にも溜池が残っていたのだ。
 乞田川上流より流れ込む中沢谷戸、多摩市西部の島田療育センター近くにある中沢池公園をご存じだろうか。ニュータウン開発時にもこの辺りは開発を免れ、今も、ほぼ当時のままの静かな佇まいを残している。 
 池は寛文年間(1665年)に造られ、永い間周辺の田を潤した。現在は、多摩市有地の親水公園となって、ハスや花菖蒲、水車などが見られる。
 中沢池では釣りも楽しめる。もちろん「ルアーやリールの使用禁止」「釣針は折り返しのないものを使う」などルールはあるものの、こんな街中に釣り場があったのだ。ちなみに築池は「釣り禁止」です。 090101号掲載

乞田川 多摩を潤した川⑥ 矢口 優

中沢公園の水車

 現在の乞田川にある、数十メートル毎にある段差は、堰の名残である。土のう・土俵と呼ばれる、俵に土を詰めたものを川に並べ、流れを弱めて、そこから川の水を田に引いて米を作っていた。今でも「せきとめる」「せきをきったように」などの言い回しが残る堰は、昔、生活の中にあった。
 毎年、田植えが始まる前の4月下旬に、堰普請を行った。堰を使う家々が、堰に使うものを田の面積に応じて持ち寄る。俵、土のうを流されないように止める杭、枝、葉、それにお茶菓子。杭は腐りにくい松を使た。まず川に杭を格子状に打ち込む。そこに土のうを置き、間を杉の枝、葉などで埋める。    
 そうして溜めた水を田に引くのだが、その流れを利用して水車を使う家もあった。水車が回ると、芯棒にセットされた杵が上下し、下に置いた石臼をついた。石臼の底には、玄米が割れないよう、丸太の輪切りをコマ状にしたものを置いた。2、3時間かけて突いた玄米をふるいにかけ(ぬか通し)、もう一度石臼に戻す。1時間も経てば、白米の出来上がりだ。  
 水車がない家は、近くの水車小屋を使わせてもらったり、杵の反対側を足で踏むと米が突ける「地がら」を使った。子どもは本を読みながら、大人は雨の日などにそれを踏んだ。
 乞田川は、血液が身体の隅々に循環するように田を潤し、多摩の稲作の生命線の役割を果たした。そして堰の下は少し深くなっていて、ギバチ、ナマズ、ナツメウナギ、フナなど様々な生物が棲み、滋養にも恵まれたのだった。
 川沿いで一番大きな水車があったのは、乞田の増田さん。当時「車」の屋号で呼ばれ、今もお米屋さんとして健在だ。
 水車は丈夫な栗の木で作られた。乞田川南側の、北に傾斜した土地には、栗が多く自生していた。それらを利用して、戦前は栗、栗めし、栗の木炭などを市場に出荷した。後に京王電鉄と合併した玉南鉄道(大正14年に府中~八王子間開通)の線路の枕木も、多摩産の栗の木で作られた。
 堰は大抵、秋の台風で壊れてしまった。しかしその頃には刈り取りも済み、堰の役目も終わる。次の出番は、翌春の堰普請。
 今の乞田川の段差は、魚が遡れるような易しいものではない。けれども今の時期には、川にいろんな種類の渡り鳥が訪れる。親子のカモがいたりすると、ついつい時間を忘れて見入ってしまう。大雨に荒れた川とはとても思えない、静かな光景だ。 081201号掲載

乞田川 多摩を潤した川⑤ 矢口優

 乞田川源流の唐木田地区に、様々な昔話が伝わる。
 
「おしゃもじさま」
 むかし、樋口山の森の近くに、おばあさんと孫娘が住んでいた。孫娘のお母さんは娘を産んですぐに亡くなり、お父さんとおじいさんは戦争に行ったまま戻らないのだった。
 その頃は作物がよく実らない年が続いて、村じゅうの人々が貧しい暮らしをしていた。それでもおばあさんはせっせと働き、孫娘はそれを手伝ってどうにか暮らしていた。そしてご飯を炊くたびに、森の中にある石神様の社に少しばかりのご飯を供えた。石神様は、その家の守り神だった。
 ある年のこと。この村に悪い病が流行った。孫娘も高い熱が出て何日も寝込んだ。おばあさんは昼も夜も看病したが、なかなか良くならない。おばあさんが疲れてうとうとした時、夢に孫娘のおじいさんとお父さんが現れ、こう言った。
「石神様に行って、孫娘が良くなるようにお参りしてきておくれ」。
 次の日の朝、おばあさんはさっそく石神様にお参りに行った。すると
「この米を孫娘に食べさせるがよい」という声がした。おばあさんが顔を上げると社の前に真っ白い米があった。
 おばあさんは有り難くいただいて帰り、それを孫娘に与えた。孫娘は苦しくて食べる元気もなかったが、石神様が下さった御飯だからと、なんとか一口食べ、もう一口食べた。食べるたびになんだか体が楽になり、とうとう全部食べた。
 孫娘が食べ終わってから、おばあさんは大変なことに気がついた。「石神様のお供えを忘れた」。
 ご飯は孫娘がすっかり食べてしまって、釜の中は空っぽ。おしゃもじに少しご飯粒がついているだけ。しかたなくおばあさんは、そのおしゃもじを持って石神様に行き、それを供えた。
 おばあさんは家に帰ってびっくり。あれほど苦しんでいた孫娘の熱がみるみる下がり、その日のうちに起き出せるようになったのだ。あくる日にはすっかり元気になって、畑仕事を手伝えるまでになった。
 この話はたちまち村中に広まり、病人のいる家はみな、石神様におしゃもじを供えた。そして、どこの家の病人も元気になった。
 それから、村の人々は石神様を「おしゃもじさま」と呼ぶようになった。
 
 「おしゃもじさま」を訪ねた。唐木田駅西、えのきど公園付近。もう社はなく、ここに小さな祠があったと札が立つのみだ。鬱蒼とした木々の奥を覗き込むと、季節はずれの大きな蚊に襲われ、慌てて森を出た。
 この話は『唐木田物語』(著者の横倉鋭之助氏は9月に亡くなられた)に収められ、他に「源耕地の怒り井戸」「影取池」などの話が残る。 081101号掲載

乞田川 多摩を潤した川④ 矢口優

乞田川の暗渠の上に置かれた鶴の碑 昔々、乞田川の水辺には、鍋鶴という名の鶴がたくさん住んでいたのだそうだ。
 当時、鶴を殺した者は打ち首にする、という領主の厳しいお触れがあった。ところがある日のこと。山王下に住んでいた者が、誤って鶴を殺してしまった。本人はもちろん部落中の人が「打ち首にされるのではないか」と心配になり、仕事が手に付かなくなった。
 その頃落合の名主をしていた五兵衛という者は、機知に富む上、人情家であった。五兵衛は領主の屋敷を訪れ、「今、村で鶴を殺したとかいう妙な噂が流れているが、それは鍋鉉(鍋の取っ手)を図師(現在の町田市)の鍛冶屋で打ってもらった話の間違いだ」と申し出て、なんとお咎めなく済ませた。
 鶴牧、という地名はこんな歴史から生まれたとも言われている。
 名主の五兵衛は姓を川井と言い、家は脈々と続いて、子孫は今も鶴牧に居を構えている。場所は乞田川が暗渠から姿を現す、鶴牧西公園のすぐ燐。
 川井家と乞田川にまつわる昔話がもう一つ。
 大正12年の関東大震災で川井家の裏山が崩れ、その土砂が乞田川を堰き止めた。溢れた川の水は川向いの田んぼに流れ込み、田んぼの持ち主が、多くの人を使って乞田川の土砂を取り除いた。すると土砂の中から古銭(青銅製の天保銭、戦国時代のもので中央に四角い穴がある)が一万枚近くも出てきたのだ。
 その所有については山の持ち主か、という説もあったが、結局は掘り出した者の所有となった。古銭を得た家では毎夏、古銭を縁側に干していたとか。土砂と一緒に運気まで流れ込んだのか、その後その家は手掛ける事業がことごとく成功し、多摩の資産家として名を知られることになった。 
 ちなみに古銭は戦争中、「お国のために」と供出され、もう見ることはできない。  
 川井家の敷地内に佇むしだれ桜は、高さ17メートルを超え多摩市の天然記念物に指定されている。幹の太さはもちろん、大きく枝垂れた一枝一枝がまるで一本の木のごとく立派な様子は、一見の価値がある。春の花咲く頃には、さらに美しい景観を楽しみに訪れる人も多い。 
 但し、見学・写真撮影は「宅地内に入らず公園から、ごみは持ち帰りで」という現地の看板を一読の上で。  081001号掲載

乞田川 多摩を潤した川③ 矢口優

 瀟洒な造りの小田急多摩線唐木田駅。建物上部に埋め込まれたステンドグラスと、駅前広場の床タイルに描かれた「花菖蒲」。これも、乞田川が潤したものの一つであった。
唐木田駅舎のステンドグラス この辺りの、山の裾野の川に面したところにはかつて、色は紫、花弁が三つの「のはなしょうぶ」という野生の菖蒲が咲いていた。近くには稲荷神社があり、その南側の谷戸には、影取り池という沼地があった。そこにまつわる昔話にも、花菖蒲が重要な役割をもって登場する。
 この地域では、乞田川の水を利用して花菖蒲の栽培を熱心に行う家もあり、人の手による交配も進んだ。毎年6月を迎える頃、唐木田の谷戸は色とりどりの花菖蒲が咲き誇り、華やかな光景が広がった。
 「菖蒲の里」と呼ばれ、多摩ニュータウンに入居した人たちなどが足を運んだ。「菖蒲の里」では、梅雨の時期に訪れる方を歓迎し、抹茶を振る舞った。花菖蒲が咲き誇る田んぼの中に、なんとお茶席を作ったのである。
 野点傘を立て、漆塗りの立札棚をおいた。亭主は着物姿でお手前をし、近所の若い女性が箏を演奏する。余程仰々しかったのか、最初こそ気軽にお茶を飲む雰囲気にはならなかったようだが、回を重ねるにつれ、気軽にお茶に立ち寄る人が増えたとか。
 しかしここも、ニュータウンの造成工事が始まった。乞田川は地中深く沈められ、当時6千株あった花菖蒲は昭和58年に中沢池公園(多摩市中沢)に移された。それに伴い昭和59年以降は、同公園の広場で「多摩市民茶会」が行われるようになった。
 第1回は、多摩市茶華道連盟による野点席を始め、表千家、裏千家、裏千家立札、煎茶清泉幽茗流の、五つの茶席が、それぞれに趣向を凝らした席を設けた。参加者は着物姿の女性ら約700名という、空前の大茶会であった。茶会は平成2年まで行われた。そんな花菖蒲の面影が今、駅を彩っている。
 もう一つ。駅に向かって右手にある大きな長いオブジェをご存じだろうか。答えは、戦後しばらくの間まで行われていた養蚕の証、「かいこ」。こちらも乞田川を利用した産業である。
 ニュータウン、と一つにくくるなかれ。歴史は意外に、あちこちに残されている。 080901号掲載

乞田川 多摩を潤した川② 矢口優

 曲がりくねった乞田川と住民の生活道路は、縄を綯うように交差しながら、下流へと続いていた。
 重なるところには橋を架けた。最も水源近くの橋は土橋。人が飛び越えられる程の小さな流れでも、牛や馬は水を怖がり渡ろうとしない。両岸の土の道と同じように見える橋を造った。まず長い栗の木(栗の木は腐りにくいため)の丸太二本を渡して、上に道幅(1m位)の丸太を並べ、その上に菰(むしろの古いもの)をかぶせ土を載せて固めた。縁には欄干の代わりに芝を植えて出来上がり。これで雨が降っても土が流れない。農耕の行き帰りや、養蚕で作った生糸を運ぶため、人と牛・馬が橋を渡った。この橋を介して八王子の別所へ、町田の小山田へ、さらに抜けて横浜へ、そして唐木田へと、多くの人が行き来した。
080801kottagawa-hashi.jpg 今となっては橋どころか川も見当たらないが、土橋の地名だけは残っている。唐木田駅前から別所方面に登ると、左手に小さな公園がある。土橋公園だ。前にあるバス停は「土橋」。その地下には水管が通り、実は現在も湧き水が流れる。
 唐木田中央(バス停)の辺りには、石の橋があった。大きな石が採れたわけでもないこの土地に、立派な石の橋が架かっていた。その訳は、近くにあった稲荷神社。そこへ上がる30段の石段に使った石と、この橋の石がどうやら同じという言われがある。神社を建てた頃に、この辺りに大地主がいて、大きな石を調達し、橋も合わせて作ったと推測されている。
 他は、木の橋。長い丸太を渡して、その上に板を並べた。しかし大雨が降ると、流されることも度々であった。これらの橋は、昭和の初めにコンクリートへと変わった。
 うだる暑さが続く毎日。先日、乞田川に入って遊ぶ小学生を見かけた。「いいなあ」という童心と、「果たして入っていいのか」と止めようとする、大人の気持ちがせめぎ合った。しかし、近くにある看板は微妙な言い回しで、どちらとも選べず、ふがいなくもその場を離れた。
 多摩市によれば、乞田川は距離が短い割に勾配が急で、沢をいっぱい抱えているため、ひとたび大雨が降ればあっという間に水かさが増すとのこと(川の南側から合流する水は全て沢の水。青木葉、瓜生、馬引沢など。決して生活排水ではなく!)。柵は乗り越えないように、川岸まで降りられる個所は大人の判断で、ということだった。 080801号掲載