唐木田物語より⑤

現在の唐木田駅北東から南側を撮影(昭和40年頃)。中央の丸い木の下の「笠地蔵」は今もほぼ同じ位置(マンションの駐車場※写真下)にある。

◆明治大正昭和(2)
【交通】
 平成2年3月、小田急線が「唐木田」まで開通したが、それ以前の昭和48年に京王線の「多摩センター」ができるまでは、京王バスで「聖蹟桜ヶ丘」に出ていた。このバス路線は昭和31年に地元の強い要望で「中沢」まで開通し、2年後に「上落合」まで延伸された。この時の主な要望理由の一つが、昭和27年に多摩中学校が現在の関戸(多摩川近く)に移設され、片道6㎞以上の道を中学生は通学することになり、家業の農業を手伝うことが出来なくなってしまったことだった。それ以前の主要道路は小野路~八王子往還と呼ばれた道が長坂谷戸を出てきて、唐木田へ入り堂近谷戸(現在の李久保公園辺り)からオオカミ谷、富士塚を経て堀之内に抜けていた。堂近谷戸の入り口からは別の道が唐木田の奥、源剛寺へ伸びていた。昭和37年頃から数年の間、神奈中バスが相模原駅からこの道を通り唐木田まで入っていたことがある。もう一筋、稲荷坂から山中へ抜ける道があった。これらの道は、春秋2回の「道普請」により、谷戸中の人々が一日掛りで草刈りや補修をし、また台風や大水で崖崩れがあれば直し、雪が降れば除雪をしていた。
【生業】
 もともと純農村であったが、土地が狭く特に水田が少なかったので、副業がいろいろ行われていた。特に盛んだったのが「養蚕」。明治から昭和の初め頃までは殆どの家でお蚕を飼い、繭を売るだけでなく、糸引きをし、生糸として八王子や町田の「市」に持っていった。また機織機を買い、「賃織」もしていた。冬には炭焼きや薪・目籠作りをし、養鶏や養豚も行い、戦後は野菜出荷組合を作り、新宿の淀橋市場に出荷していた。しかし畑も山の傾斜地で、人力や牛馬に頼る農業であったため、ニュータウン開発という時代の波の中に消えていってしまった。  100801号掲載

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