唐木田物語(横倉鋭之助著)より ③

◆江戸時代
 天正18年(1590年)関東に入国した徳川家康はすぐに家臣の知行割りを始めた。その際江戸から近い武蔵、相模には幕府直轄地や中小の知行取りの旗本を配し、一夜泊りで江戸に駆けつけられるようにした。
 現在の唐木田が属する旧落合村も当初幕府直轄地であったが、元禄10年(1698年)の「地方直し」によって旗本の松平氏と曾我氏の知行所に分割され、松平氏の知行所を「上落合村」、曾我氏の知行所を「下落合村」と呼ぶようになる。
 この分郷に関する資料として*「武蔵国多磨郡落合村田畑百姓分ケ帳」が残されており、実際の分村は翌元禄11年に行われ、村中の百姓が相談し、同属的な纏りや日常的な繋がりを尊重し、出来るだけ混乱を避ける形で分割されたことがわかる。
 また享保8年(1723年)の「落合村座帳」には村の人々が会合などで座る席順が記されており、名前のところの「上」「下」の記載は「上・下落合村」の区別を示し、上落合村には「横倉」「高村」「古澤」といった唐木田に多い姓がある。この三家について、宝暦13年(1763年)の「落合旧記」には元亀や元和といった1600年前後の御水帳や棟札あり、と記され、その名前も「藤太郎・勘兵衛・兵庫」と、武士を思わせる名前がある。
 戦国の世が終り江戸の始まる頃、何処かの落武者が山深い唐木田の谷戸に隠れ住んだのであろうか。
◆唐木田稲荷神社と石仏
 創建の年代を明らかにする資料は無いが、先の「落合旧記」には『唐木田稲荷社ハ藤太郎ノ地也 谷戸中ノ神也』とあり、また棟札には『文化9年(1812年)3月29日再建 施主横倉與兵衛 行年85心願』と記され、氏子として横倉、高村、古澤14名の名前が書かれている。
 …その昔、稲荷の森には大蛇が棲んでいて、美しい娘に姿を変えて村人を沼に誘い込んだりしていた。そこで清左衛門という若者が杉の大木の洞穴で寝ている大蛇を退治したのであるが、若者もその時大蛇の口からでた青い焔で眼が見えなくなってしまった…という伝説がある。
 境内に6体の石仏が、小さな覆屋の中に安置されている。いずれも江戸年間に造られ、以前は参道にあったもの。その中で特に珍しいのは、男女が優しい幸福感に満ちた表情で刻まれている「双躰道祖神」で、多摩市内唯一のものであり、元和7年(1621年)の年号がある。 100601号掲載

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