横倉鋭之助著「唐木田物語」より 第2回―古代には国府街道の沿道だった―

街道はこのゴルフ場を通って唐木田へ抜けていた。

 大和朝廷の勢力が東国にまで及ぶようになると、武蔵国の国府が今の府中市に置かれ、天平13年(741年)頃に武蔵国分寺が建立された。当時国府街道という官道が各地の国府を結んでいたが、相模の国府と武蔵の国府を結ぶ道が多摩丘陵を横断していた。相模国府の寒川から店屋(現在の町田市鶴間)を通り、今井谷戸、七国山を経て下小山田の大泉寺に達した国府街道は、落合(現在の多摩市唐木田)に抜け乞田・貝取を通り関戸から多摩川を渡って武蔵国府へと通じていた。小山田から落合に抜ける部分は、大泉寺付近から堂谷戸に入り、東京国際ゴルフ場を通って総合福祉センター辺りから多摩市に入ってきたと推定され、古代における唐木田は国府街道の沿道だったことになる。  
 鎌倉時代になると、幕府のある鎌倉から武蔵、上野方面に通じる武蔵路といわれる鎌倉街道が出来、先の国府街道の七国山付近から北上して鶴見川を渡り、小野路を通って貝取へ抜けるようになった。このため古い国府街道はやがて忘れられた道となってしまった。
 その頃の唐木田はどうなっていたのだろうか。隣の小山田には平安時代末期より桓武平氏の流れを汲む一族が秩父から移り、小山田氏を名乗っていた。源平の争いが始まると源頼朝に従い平家追討に活躍した。特に初代当主小山田有重の三男重成は頼朝の妻政子の妹を娶り、一族は有力御家人となっていった。大泉寺付近に本拠を構え、小野路城や稲毛城を築き、唐木田の棚原(以前は小田急の車庫の辺りは小高い山であり棚原山と呼ばれていた)にも出城があったようだ。大泉寺から馬の背のような細い尾根で繋がる棚原に北の守りの城を築き、そこに長男有高を配し、関戸付近までを支配していた。その後小山田氏は北条氏に滅ぼされるが、棚原にはその後も館があり、武士が住んでいたと伝えられている。天正18年(1590年)、八王子城が落城した時に討ち死にした北条氏照の家臣島崎二郎某なる武士が棚原の館にいたと「武蔵名勝図絵」に記されている。
 また新田義貞が鎌倉を攻めた元弘3年(1333年)の関戸・分倍河原合戦の時のものと言われる「勝負塚」が、東京国際ゴルフ場内にある。関戸で敗れた鎌倉方が小山田城に逃げる時の戦いで戦死した兵士達を葬った塚と言われている。
■国府=古代国家の中央集権体制を目指して全国約68カ所に置かれた役所
■武蔵名勝図絵=八王子千人同心の組頭植田孟縉が文政3年(1820年)に書き上げたもの  100501号掲載

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