多摩ニュータウンができた理由の一つに、多摩丘陵一帯が広大な雑木林であったことをあげることができる。 その雑木林は「薪炭林」とも呼ばれていた。 江戸東京の人々の生活になくてはならない台所の燃料や暖房用の薪、炭を生産し、供給してきた。 雑木林のもう一つの大きな役割として見逃せないのが落ち葉の効用である。 都心に近い世田谷、練馬、調布、府中、国分寺などの農家が生産する生鮮野菜の有機肥料として、この豊富な落葉は野菜栽培に欠かすことの出来ないものとなっていた。 多摩ニュータウンの最初の開発が始まった諏訪・永山地域には府中市などの野菜栽培農家が所有していた雑木林が相当数含まれていた。 1月も過ぎ、2月に入るとこれらの野菜栽培農家が一斉に多摩川を渡って、多摩丘陵の雑木林に落ち葉を集めに弁当持ちでやって来る。茄子や胡瓜、トマトなどの苗床とサツマイモの苗床には欠かすことの出来ない釀熱材でもあったのだ。 作物に施す堆肥の材料であると同時に牛馬などを飼育する保温材料でもあるこの落ち葉を大籠に詰めて牛車等で運ぶ風景が各所で見られたものだ。籠でなくて木の枝や笹などで落ち葉を管状に丸め束ねて運ぶ人たちもいた。 多摩地域の人たちの冬の山仕事は落ち葉掃きや薪切り、炭焼きなどが主であった。農業を営む上で冬の仕事こそが夏の作柄を決める要素となっていた。 多摩丘陵の雑木林はその他にも多摩地域を大きく変えるきっかけとなった。 多摩都市モノレールに乗って沿線を見たとき、今も雑木林の風景を留めているのは中央大学、明星大学駅と多摩動物公園付近であるが、その姿はかつて多摩の農家が管理していた雑木林の姿ではない。 薪炭を生産していた当時、楢や櫟を伐採したあとの、ひこばえ(ほい)が育って10年から15年が経った頃が一番薪や炭に適していると言われていた。木に粘りけと油気があって、燃やして火力があり、炭にして壊れにくいなどの理由から以前の雑木林は若木が大半を占めていたのだ。 燃料として石油が登場したことによって雑木林の役割は大きく変わり、「多摩丘陵」はゴルフ場や大学の学舎となったり、多摩テックのような遊園地や住宅地へと変貌していった。
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