【23】開発前史「養蚕」

 せっかく育ててきた蚕(かいこ)も、繭(まゆ)になる間際に餌にする桑が不足したり、逆に人手が足りなくて桑が余ったりする農家が出てくる。そうした農家を結びつける桑の市が数日間立つ。多摩では乞田の増田商店や東寺方の森沢商店、由木では松木の大沢商店などだ。
 蚕から繭になったものを生繭と言い、そのままにしておくと数日後には中の蛹(さなぎ)が成虫の蛾(が)になって繭を破って外に出てくる。そうなると蛾が出た穴のところで糸が切れてしまい、価値がなくなってしまう。生糸や生繭を買う仲買人も廻ってきたが、大手製糸工場は他の製糸会社と競って繭の集荷、買い付けのために養蚕の掃きたて当初より各農家を巡回する養蚕指導員を雇っていた。
 行政も養蚕の振興に力を注ぎ、各市町村には東京府の職員として養蚕指導員を駐在させた。既に大正の初めには養蚕の技術と学問習得のための東京府立府中農蚕学校、そして神奈川県立橋本農蚕学校、つづいて染物と織物の東京府立八王子職染学校が開校していた。
 養蚕は農家の現金収入となっただけでなく家族の着物を備えることにも大いに助けとなった。その場合、まず生繭を”乾燥”させなければならない。専用の乾燥倉の中で炭火を焚いて一昼夜乾燥させる。乾燥倉のある家は数件しかなく、その時期になると近所の家が交代で借りる。家の人は、他の家の繭の乾燥のために夜も数回起きて見回りをする。炭火が強ければ繭を焦がし、糸質を弱くしてしまう。火力が弱ければ蛹が完全に乾燥しない。時には繭を切って確認することもあった。娘さんのいる家では2~3台の糸取り機で朝早くから夜遅くまで互いに競って乾燥を終えた繭から”糸をとる”。自分が嫁ぐときに持っていく着物になるのだから苦にならなかった〔ここで糸を”撚(よ)って”太く柔らかくする工程を加えると白く輝く絹糸になる〕。次にこの生糸を機織機(はたおりき)で”織って”反物にする。それを分倍河原や府中の紺屋(染物屋)で好きな友禅柄に”染め”てもらい”仕立て”れば、それこそ美しい正絹の着物が出来上がる。
 秋の夜長、糸取りや機(はた)を織る娘さん目当てに村の若者たちが用事にかこつけて何度も立ち寄り、祭りに誘い出す約束をしたりする。そうして冬になるとあちこちで結婚が決まったという話を聞いたりした。
 昭和二十年代も終わり、それまで地域の連帯の役割を果たしてきた養蚕組合も解散に至ると、多摩丘陵は拠りどころを失ったような農村社会となっていった。

繭からとった生糸で反物を織る

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