養蚕という主産業をなくし、近郊農業への転換を図るも、猫の額のような畑や山間の田んぼでの、人の背中に頼る農業を一朝一夕に変えることはできず戸惑いの中にあっても、ある者は酪農、養豚、養鶏へとそれぞれが新しい取り組みに動いていた。
麦まきなどの時は堆肥を丘の上の畑に家族総出で背負い運ぶのが最大の仕事となっていた。先ず畑や田んぼへ通じる農道に三輪車や耕運機が入れるようにしなければと、農家総出で農道を整備する。
しかしこの丘陵の傾斜地にできた手作り農道に入ることができたのは、せいぜい牛車ぐらいだった。
やはり近代農業への転換は一気に進めなければならない。まず機械や軽トラックなどの導入資金に当てるため、山林を売却しようと、集落から少し離れた中沢地区の共有林(当時は開墾して畑となっていた)を中心にゴルフ場の誘致を決める。これが府中カントリークラブである。
ところが、土地を売却したことを家族に黙っている訳にはいかない。「お父さんお金が入ったんでしょう。電気洗濯機が欲しい、家が古くなっているので台所を、屋根を修理して、いっそのこと新しく建替えましょう」と妻が言えば、「僕はオートバイが欲しい、大学にも入りたい」と息子が言い出す。山林や畑を売却した代金は、農業の近代化のための資金にまわすどころではなくなった。生活様式も薪や炭、木材などが生産された山林がなくなったことで、ガスや石油、電気を使うように変わっていった。
さらに、時は高度経済成長時代の幕開けとも重なり、銀行は大企業の設備投資のために資金を回すための金集めに躍起となっていた。結局、売却代金は銀行に貯金として集められてしまうことに。ゴルフ場開場後は、コースの管理、クラブハウス要員としてそこが多くの人の職場となる。
こうして戦後間もなく、自給自足のための食料と都心への新鮮野菜などの供給に力を入れてきたものの、丘陵のため農業の近代化が図れず、昭和三十年代に入ってから、この地域はゴルフ場の建設ラッシュを迎えた。府中カントリークラブに続き多摩カントリークラブ、東京国際カントリークラブ、桜ヶ丘カントリークラブ、読売カントリークラブ、米軍の多摩ゴルフコースがオープン。
薪炭林であった多摩丘陵の山林は、ゴルフのメッカと変わっていき、いよいよ三十六年にはニュータウンの一大開発へと進むのである。
関連記事
- ロータリークラブ新会長・新幹事
- 【9】その時多摩は動いた(1)
- 【5】生き残るための道がニュータウン開発だった
-開発はゴルフ場がきっかけ-
-やむなく土地を手放す農民- - 創立40周年 東京多摩ロータリークラブ
- 初めてのゴルフ体験~プロの指導で楽しくレッスン~
- 【8】府中カントリーを誘致(2)
- 国際奉仕活動 東京多摩ロータリークラブ フィリピン小学校修復支援
- 東京多摩グリーンロータリークラブ、創立20周年
- 焼死者ゼロ1000日達成 多摩消防署
- 車いすの皆さんテニスを楽しみめせんか
ロータリークラブが応援のお手伝い



