戦後経済発展の原動力となっていた人たちや、輸出産業の担い手として活躍していた人たちの住む場所を確保するためだと言うのだから、反対するわけにもいかず困ってしまったのです。
同じ頃、千葉の成田空港建設では、地権者が命を懸けての反対闘争を繰り広げており、その情報も当然耳に入り反対する術もあったのですが、一方では新しい多摩の発展を夢見ていた面もあって、結局開発の推進に動いていったのです。
つまり成田のような反対運動はおこらなかったわけです。もちろん地主さんの中には、強硬に売り渡しを拒んでいる人もいるにはいました。しかし全体の空気としては反対運動を繰り広げるという状態にまでには至りませんでした。それは賛成し、推進している人たちの事情を理解できたからでした。
また推進する側の人々も積極的な推進ではなく、大勢の成り行きを見守ろうという姿勢で、仕方なく売り渡しを承知するという事であったのです。強硬な反対も出来ず、土地売り渡しを承諾し、開発賛成となったその背景には、幾つかの理由があったように思われます。
次に約三千ヘクタールにも及ぶ多摩ニュータウン区域の丘陵地帯に、代々農業を営み生活をしてきた人々が、この世紀の一大開発事業を受け入れるに至る経緯をたどることにしたい。
それは八王子を中心とする多摩丘陵一帯に古くから営まれていた養蚕と生糸の生産が壊滅したことから始まったと言えます。
戦後間もない昭和二十一年頃から、農家の生活の基盤となっていた養蚕がナイロンやビニールなどの石油製品に押され壊滅状態になっていたことから、何とか養蚕に代わる産業は見い出せないものかと真剣に考えはじめていました。
ここ多摩ニュータウン地区は都心に近く、交通も発達してきていることから、都市近郊農業への道も決して夢ではなく、新しい生鮮野菜の産地としても、市場に売り込むことが出来るのではないかと、「青果物出荷組合」を作り、新宿市場に定期的に出荷を始めていました。
昭和二十年代から三十年代の始めにかけて、都心に住む人たちのための野菜づくりは農家の経済に大きな役割をはたしてきたのです。
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