- 2002-06-01 (土) 12:00
- 【連載】多摩ニュータウン
昭和三十年代に入って安保闘争の学生、労働者たちによる反体制運動の盛り上がりによって当時の池田内閣は所得倍増計画を打ち出し、国民の不満解消を図り、高度経済成長時代に突入した。家庭電気産業、自動車産業、コンピューターなどの大量生産時代に入り、付加価値を高めた電気製品、自動車などの輸出が伸び、企業の設備投資が盛んになるとともに大量の働き手も必要となった。
そのため地方から都市へと労働人口が流入し始め、中、高校卒業生は金の卵などともてはやされて、就職の受入れに躍起となった時代。
その人たちもやがて所帯を持つようになって、都市周辺の住宅が不足し、その住宅難の解消を図るための政策を、政府や行政は打ち出さなければならないという状況になっていた。
この事態に早くも手を打っていたのが大阪府で、昭和三十二年には千里ニュータウン構想を打ち出していた。東京都もこの対応に遅れを取るわけにもいかず、しかも、首都東京としてはメンツにかけても大阪に負けるわけにはいかない。出足が遅れたのだから規模、質においても日本一のベッドタウンを作らなければならないという事になって、三十年代の後半には開発計画の実現に向かって動きだした。
それが、今日ある多摩ニュータウンの用地開発であった。
このように全国各地より都市に集まってきた人たちの住宅難の解消のための大住宅団地作りに白羽の矢が建てられたのが、多摩丘陵の未開の農村地帯だった。
しかし、この大開発を受け入れた地元の人たちはどうでしょうか。
決して土地所有者のみなさんがこうした大計画をすぐに理解できたわけではありません。先祖伝来守り続けてきた田畑、山林を手放すことは、今まで生きてきた生活の基盤を根底から覆す事になる。農民が土地を手放すことは、子供の時から体で覚えてきた農業という職業を止めなければならない。この心情は、この地域で農業という職業を通じて、四季折々の自然の恩恵を受け、生活をしてきた者にとって耐えがたいものがあった。 しかしニュータウン開発という大儀名文は国家の計画であったのだ。
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