多摩丘陵の広大な用地を取りまとめるという大事業により、多摩ニュータウンの基盤とも言うべきその用地が確保され、奇 跡の買収とまで言われたのは、偏にそこに昔から住み、営々と農業を続けてきた人々の深い理解と協力という大きな力による ものである。私たちが事前の交渉に奔走したことは、それに花を添えたものだった。
農家を営む人にとって、土地は命の次に大切なもの、いかに新住法(新住宅市街地開発法)と言えども簡単に同調して土地 を手離せるというものではないが、地域の人たちがこぞって協力するものであれば・・・、ということで大勢に順じたという 思いが強かった。
あれから三十九年の歳月が流れようとしている。その間いろいろな人々によって、いろいろな改革や投資がなされ幾多の変 遷を経て、純農村から近代都市への脱皮を実現させた。
二千九百六十二ヘクタール(約三千万坪)という広大な用地が二千世帯にも及ぶ農民の手から住宅公団、東京都や都住宅供 給公社の手に渡っていって、多くの人の通勤手段である京王、小田急による鉄道、モノレールの開通、主要幹線道路としての ニユータウン通り、野猿街道、尾根幹線道など交通の動脈が整備され、稲城、多摩、八王子の三市にまたがる生活圏を広げた 新しい都市が出現した。
日本住宅公団によって、世界にも誇るわが国最大のニュータウンの建設となった。
そして昭和四十年代後半における都民の住宅難解消のための役割を果たしてきた。
昭和四十六年に始めての入居を迎えてから三十数年が過ぎた街は熟成の段階に来たと言われている。勿論住民によるコミュ ニティも熟成され、街づくりもそこに住む人たちに主導権が移っていていいはずである。
ところが多摩ニュータウンは新住法を楯に、都市公団や東京都が未だに街づくりの実権を握り続けている。四季の丘の分譲 の時のように、民間住宅より廉価で質の良いものとして公団住宅に人々が殺到した時代は終わり、公団の役割は終わったのだ と思う。
公団もそのことは認めていて、住宅建設からは手を引いた。当初の開発からの責任回避ともとれる、住宅都市整備公団から 都市基盤整備公団に名称を変えている。
だが多摩市、八王子市、稲城市の各地区は未だ使われていない土地を大量に抱えている。今後民間に売却して共同開発とい う形で未利用地の住宅開発を進めていくものと思われる。
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