多摩ニュータウンの用地代金が最初に公団に代わって支払われたのは昭和三十八年十二月八日であった。日本が二十三年前の真珠湾攻撃 によって、米英に宣戦を布告し、大東亜戦争に突入したのがその日なのだ。何かのはじまりのような予感がしていた。
その年の暮れまでに一人、また一人と契約が結ばれていき、翌三十九年三月までには、最初に手がけた諏訪、永山地区の大部分の地主さ んとの契約は完了した。
売却代金を巡り農協や銀行の預金獲得には血眼の戦いが繰り広げられた。最初の契約に基づく支払いは八王子駅北口の日興證券八王子支 店の二階で行われた。
関戸の私たちの事務所で契約が行われる時には数社の銀行員が事務所の回りを二重三重に取り囲むという程の物々しさであった。 そのようなことから地主さんの多くは、契約の前に銀行や農協と話が済んでいて、札束の山を見ずに数字だけが通帳に記入されていくよ うになっていった。
中には、先祖からの土地を手放すのだから代金は現金でなければ・・・と言う人もいて、そういう場合は現金で支払われた。
こうして翌三十九年三月までには多摩ニュータウンで最初に手掛けた諏訪、永山地区の大部分の地主さんとの契約は完了し、用地が確保 され、続いて豊ヶ丘、落合地区へと買収は進んでいった。
一方、東京都も愛宕、鹿島、松が谷地区へと買収交渉を進めていた。
昭和三十八年七月には新住宅市街地開発法が公布され、昭和四十年十二月多摩丘陵の二千九百六十二ヘクタールが新住宅市街地開発事業 として都市計画に決定され、多摩ニュータウン区域となった。これに基づいて日本住宅公団、東京都、都住宅供給公社がそれぞれこの法律 に基づいた用地買収交渉に入っていった。
昭和四十一年から区域内の買収が本格化し、一気に開発が進む。
こうして全国的にも、いや世界的にも稀に見る新しい街の建設が動きだしたのだ。
この買収交渉は収用権があるということから地主さんの協力が案外スムーズに進んだように見えた。その要因の一つとも考えられるのは、 昭和三十六年以来足掛け四年の歳月をかけて諏訪、永山地区の買収交渉に取り組んできたのだが、その様子が他の地域の乞田、落合、由木 村の堀之内、別所、松木、南大沢、鑓水などの地主さんたちに親戚や知人を通じて逐一知らされていたことにあったと思う。
彼らはやがて我が身が決断しなければならない問題として受け止め、既に腹を決めていてくれていたのだ。
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