多くの人が関わる仕事を手掛けるときには命がけでなければならないということを身をもって体験することにな った。
この広大な用地を取りまとめるという大事業は、自分のことだけを考えたり真実を明かさず儲けようなどという姑息な手段や考え では、決してなし遂げることはできないということを知ったのである。何しろ多摩丘陵はじまって以来の大開発であったのだから。
さて地主さんたちとの間は何とか話ををつなぎとめることができたが、住宅公団の方はというとなかなか話は先に進まなかった。
公団とすれば、まもなく新しい法律に基づいて住宅開発が行われようとしていることが判っていたので、それまでの間どこか民間 の業者に用地を確保しておいて欲しかったのだ。
資金調達の不可能であった木崎物産㈱から日興不動産㈱に公団の代行役が移行し、その日興不動産と私たちは提携して業務を進め
ることになった。
私たちはまだ会社組織ではなかったので、名刺には住所の前に「日興不動産指定」という肩書を入れていた。従業員は女性事務員 一名、営業兼運転手二名と横倉、高村の五人。多摩町関戸八三五番地小山酒店前に昭和三八年の四月頃から、既に建っていた二階だ て事務所を増築して業務を開始した。

この事務所では日興の浅野営業部次長が陣頭指揮を取り、公団とも連絡を取りながら、相談しつつ話が進められるようになった。 日興不動産から最初に送り込まれてきた社員は大学を出たばかりの新入社員、前田昌男氏だった。
彼は毎日、本社から運転手付きの乗用車(クラウン)で我々の事務所に通勤することになった。
買収交渉が大詰めを迎えた三十八年の十月頃には、地主さんたちとの売買契約締結の準備に追われ、その頃になると日興からの社 員は十二人ないし十三人に膨れ上がり、それぞれ何組かに分かれて地主さん宅を訪問した。私たちは夕方や夜遅くに帰ってくる彼ら の報告を聞くのが日課となった。
その頃テレビでは東京オリンピックの様子を毎日放送していた。誰もがテレビにくぎづけになってしまったので、思い切ってカラ ーテレビに買い換えた。そんな時代である。
いよいよ日興不動産の振り出した手形を多摩町農協を通して都信連や農林中金で割り引いて用地代を支払うことになった。その時、 日興不動産が振り出した手形の額は六億何千万円かと推測されている。
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