【11】その時多摩は動いた(3)

 小泉社長との会談は、私たちが日頃から馴染みにしていた分倍河原の高倉荘という料理屋だった。
 その席で小泉氏は「東京都が大阪の千里ニュータウンをしのぐ、世界にも誇る一大住宅団地の構想を持っていて、それを進めようとしていること。そのため各開発業者はその動向を見守っていて、既に動き出している業者も数社に登っていること」を説明した。私たちの用地買収の話を東京都に持ち込むよう勧められた。
 数日後、小泉氏の案内で都庁第二庁舎へ出かけた。小泉氏は住宅局の担当者の席で打ち合わせなのか、説明なのか手間取っていた。高村さんと私はカウンターの外にあるビニール張りの古い長椅子で待たされた。三十~四十分は待っただろう、緊張していた気持ちも薄らぎ、連日の疲れが出たのか眠気がさしていつの間にか待合いの長椅子に横になっていた。
 その間高村さんは小泉氏と係官との打ち合わせの様子を遠くから見ていた。どうやら話がついてカウンターの中に入ってくるよう合図があって、急遽私たちも気を取り直し、担当者との話に加わることになった。

公団側への現地説明(39年、現在の諏訪5丁目)

公団側への現地説明(39年、現在の諏訪5丁目)

 担当者の自席の前で名刺を差し出し挨拶を交わした。だが小泉氏が話していたほど都の係官は積極的では無かった。もちろん初めて会ったのだからそうすぐ具体的な話にはならなかった。第一、その時差し出した私たちの名刺には、何の肩書きもなく、名前と住所だけ、何者かが判らないのも当たり前で、係官が慎重であったのも無理はなかった。あまりに待たされて熱が冷めてしまっていた私たちの脳裏には、もう一つの話が去来し、本腰が入らなかったのも事実だった。後日、小泉氏からは是非とも東京都の方に話を進めてほしいと依頼されたが、とにかく都の出方を待つことにした。
 同時に持ち込まれていたもう一つの話しも、引き続き進めることにした。それが木崎物産(株)からの申し出であった。社長の木崎氏は国会議員当時の顔を生かして、住宅公団に大規模住宅団地の開発用地を持ち込み、用地の確保が可能になった時点で住宅公団が買収するという業務を主力としていた。
 木崎茂男氏は西多摩郡成木村の出身で、戦後若くして同村の村長を務め、昭和三十年に衆議院選に打って出て見事当選した。若手代議士として三多摩の開発に情熱を傾けている人で、大きな期待が寄せられていた。戦争で片足を無くし義足をつけた傷痍軍人であった。義足を補うために一本だけの松葉杖を使って国会内を走り回り、首都圏構想を提案、その法案の成立を実現させた。昭和三十三年の衆議院選では落選し、その後木崎物産(株)を設立した。

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