集落から少し離れた由木村と多摩村との村境に、山林を主とした共有地があった。ゴルフ場用地に薦めようとしたそこの場所は、中沢地域を丸く囲んだ中沢沖一帯と呼ばれた地区であった。そこからは燃料となる薪炭や建築用材や、この地方の特産であった「めかい」の材料となる篠竹、屋根の材料となる茅等が生産されていたものの、それらに替わる石油製品も出回り始めていた。
養蚕という産業の破滅により薪炭などの需要もなくなってきたことから、ゴルフ場に山林を売却して農業近代化のための資金に振り替えようとしたのだ。
当時の多摩や由木は駅から最も遠い山沿いの過疎地的存在だったことから、その活性化のための手段として、ゴルフ場を誘致することに踏み切ったのだ。
今になって考えてみると、何の苦労も知らない若僧であったからこそ、こんな無謀で馬鹿な選択をしてしまったのだろうかと思う。
最初にゴルフ場の話を持ち込んできたのは、川崎市菅の五島真三さんだった。五島さんは読売カントリーゴルフ誘致に成功し、第二のゴルフ場として目を付けたのが、前述の中沢沖一帯だった。五島さんが最も苦労したのが打ち合わせの連絡をとることで、落合の山奥まで毎日のように足を運ばなければならなかった。その頃の多摩村には役場、農協、郵便局ぐらいには電話が引かれていたが、一般の家庭にはほとんど電話はなかった。鎌倉街道以西の多摩には電話線も引けてなかった。五島さんはいつも電報を打ってきた。
そのようなことから郵政省の補助を受けて、農村公衆電話設置の申請をして、一本の電話線に五台の電話機をぶらさげ、各地区ごとで利用出来るような、電話を引くことになった。こうして電話も通じ、近代化への一歩が進むことになった。五島さんからの話は時期尚早ということで立ち消えとなったが…。
実のところ私の父親はこの計画や土地を売却する事には絶対反対であった。それもそのはずだった。何代にもわたって譲り継がれ、守り抜いてきて我が子のように育ててきた土地への愛着は、二十代の若者には理解し難かったし、身に付いていなかった。
何しろ、この我が郷土を市街地に近づけたいという願いと、農業の近代化を図ろうとする考えが先走ってしまっていたから、親父の考えには目もくれないで親父の死後、用地のとりまとめに専念することになってしまった。
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