【5】二つの吸殻の山(1)

 戦後まもなくのころ、多摩の山沿いと言われていた唐木田地区は戸数20戸余りのひっそりとした、寂しい山村の部落だった、その山間の部落に終戦により兵役から帰ってきたばかりの若者がいた。
 毎日することもなく手持ち無沙汰の日々が続いた。家族の者も兵隊帰りということもあって少しの間気楽に休んで貰おうという配慮があったものと思う。田んぼの稲は穂ばらみから、出穂(しゅっすい)の時期を迎えていた。畑の仕事も一段落して秋の実りを待つばかりという時期、農家にとって一年で最も気の休まる時でもあったので、のんびりと田畑を見回りながら数日を過ごしていた。
 その年の9月、10月は雨の日が多く何日も降り続いた。雨の日は何日も何日も家族のための藁草履作りをして過ごした。家族全員の何足もの草履が出来上がった。草履の鼻緒に使う色々の「ぼろ布」を祖母から無心していたがもう「ぼろ布」もないと断れてしまった。
 草履作りも大分なれてうまくなってきたので、草鞋(わらじ)や蓑(みの)を編むことも教わろうとした。一度教わった位なので今はもう編むことは出来ない。その他、米俵、桟俵(さんだわら)、炭俵など藁仕事も、きりがなくある。
 この暇潰しの仕事は若い者のやる事ではなかった。
 そのうち同年輩の若者が次々と復員してきた。そして雨の日など畑仕事も出来ないことから友達が訪ねてくる。裏の山にある木小舎で草履作りをしているのでと家族の者から教えられて藁仕事をしている木小舎を訪ねてくる。暇潰しのような仕事なので草履作りの手を休めて話は弾み、兵隊での手柄話から、戦後の世相や食糧不足のことや、やみ米などが高値で売れていることなど話した。米を始め食糧の増産をどうしたら出来るのだろうか、養蚕はもう頭打ちの時代に入っていた。
 農学校出であることと都の農業技術員などをしていたことから、本音は「これからの農業をどうしたらいいのか」などの相談にやって来るのだった。
 3時頃になると妹などが「メカゴ」に布巾を被せた、おやつを運んできてくれる。布巾を取るとそこには黒く光った蒸かしたての「さつま団子」が何個も入っている、両指でつまみ、ひねったような形をしている。今年はまださつまいもは採れていないので、去年のさつまを粉にして作ったさつま団子である。それときゅうりやなすの漬物。茶碗とやかんにはお茶が入っていた。

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