- 2001-11-01 (木) 16:08
- たまには多摩語り
由木村は、その昔万葉の歌人によって「多摩の横山」と歌われた、なだらかな丘陵地帯のほぼ中央に位置する。明治22年、上柚木、下柚木、鑓水、中山、松木、大沢、堀之内、越野、中野、大塚、別所、の11の旧村が集まって発足し、新しい村づくりが始まった。村の中枢部をなしていたのは、現在の由木中央小学校や由木農協などが並ぶあたりだ。農協のわき道を登っていくと、禅宗古刹の永林寺がある。正面に朱塗りの門がある。数年前までこの山門にかぶさるように枝を張った巨松の下に「牛魂碑」が建っていた。今は本堂に向かう最後の門、中雀門を入って左のところに移されている。この「牛魂碑」は、由木村がかつて日本の代表的な酪農村であったことを物語っている。碑は、当時82才の井草涛翁の書によるもので、昭和25年4月8日、由木村授乳者一同が建てたものである。松涛は、多摩酪農の創始者である井草甫三郎氏の号。早くより漢学を志し14才で漢学者村田直景に師事した彼は、「男子困を守ることなかれ、銭なければよろしく事業を興すべし、一牡牛飼いうれば五の子牛を得ん。子牛子に子を産んできわまりやむことなし。富は遂に君候と相似たり」という詩に感銘し、畜産への眼を開かされる。農業、畜産ほかの読書をよくし、北海道の酪農の先覚者とも交わりを深くした。そして、由木村の豊富な草で乳牛を飼い、その糞尿を土地に施して農作物を増産し、同時に、人類最高の食品である牛乳を生産する『酪農』こそ家や村を興す基であると確信する。明治40年、先進地の千葉より雌の子牛1頭を買い入れ、牧草の種も北海道他から取り寄せて、畑や畔・土手・空き地に蒔き、トウモロコシも栽培した。豊かな草で子牛はすくすくと成長し、やがて元気な子牛を産んだ。牛乳も近隣に配っても余るほどであった。地震を得た彼は、千葉をはじめ岩手や北海道から次々と優良牛を導入していく。これが多摩の酪農の始まりであった。農家に子牛を貸し付けたり、買い入れの斡旋をはかる。ついで畜産組合を組織し、牛乳の共同販売を企画、当時の東京府庁や農林省に日参して陳情を繰り返し、補助金を得て各町村に共同搾乳所を設けた。さらに品質管理のため近代的な設備の中央処理場も設置するなどして事業を成功させ、酪農を三多摩全域に広めた。牛といえば井草、酪農といえば由木村と言われるほど、全国に知れ渡り、日本の酪農の指導的役割を果たした。 2001.11.1号掲載
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