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多摩ニュータウンタイムズについて
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たまには多摩語り 源耕地(げんごうじ)の怒り井戸【乞田川水源の伝説】

 豊田―堀之内―唐木田(都道155線)を結ぶ通りが唐木田3丁目で尾根幹線と交差する辺りは、源耕地と呼ばれた。周囲を山で囲まれた谷合いは低地で杉の木などが茂る、昼なお薄暗いじめじめした人の近づかない場所だった。現在は大和証券研修センターや東京三菱銀行情報センターのある地域だが、いくつかの民話が残っている。「源耕地の怒り井戸」は現代にも通じる不倫が招いた話だ。平凡に暮らしていた家族3人の家に、旅の僧が現れ一夜の宿を乞うた。良くしてくれる家族に、僧は旅に出なくなり、奥さんに好意を持つようになった。やがて、ただならぬ仲となった二人は、子供を奉公に出し邪魔になった夫を二人で殺し井戸へ投げ込んだ。素知らぬふりをして暮らしていた二人の所行は公の知るところとなり、谷間にあった1本の松に磔の刑に処された。松は久しくその場所にあったが、今は枯れてない。僧の名は源五郎、なまって辺りは源耕地と呼ばれるようになったという。磔後、二人は2つあった井戸にそれぞれ投げ込まれたが、清浄な水を汚された井戸の怒りは深く、ごうごうと水を噴き出すようになった。村人たちは恐れて、誰もその場所へ近づかなくなってしまった。いつの頃からか、誰が建てたか源耕地には供養の碑が建てられていた。その付近には「影取り池」の伝説も残っている。池は流れる雲と木々を映し、深い谷間で静まりかえっていた。しかし、峰を歩く旅人の姿が池に映ると、影ごと人も一緒に池に吸い込まれてしまうのだ。池の主の龍が乙女に化けて溺れたふりをする。旅人が助けようと池に近づくと龍に食べられてしまったという説が一つ。落城し先立った夫を追って身を投げた奥方と侍女のすすり泣きを聞いた旅人が池に近づくと吸い込まれてしまう説。どちらも僧侶が丁寧にお経をあげたところ、それぞれ昇天することができ、以後旅人は引きずりこまれなくなったという。山に囲まれた木の鬱蒼としげる源耕地は、このように不気味な言い伝えが残る、日の当たらない湿地だった。しかし、豊富な水量を抱いていた源耕地近隣の伏流水は、中沢の池となったり、唐木田の菖蒲園を潤し花の名所とした。また、その流れは鶴牧西公園や川井さんのしだれ桜の木のそばを通り、稲荷橋付近で中沢からの流れと合流して乞田川の水源となる。先は行幸橋の辺りで大栗川に合流するが、毎年、川沿いの満開の桜並木は私たちに潤いを与えてくれる。コンクリートで固められてしまったニュータウンに住む私たちは、こんな伝説を持つ源耕地を想像することは難しいが、伝説があったからこそ大切な水源が守られていたのだろう。今は昔のお話である。※参考文献 多摩市史叢書(5)、多摩市の民族(口承文芸)、多摩のふるさと風土記図絵、多摩の歴史(7) 2001.9.1号掲載

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