たまには多摩語り 【多摩丘陵の雑木林】役割を終えたのか

 多摩ニュータウンの土地の八割は、雑木林が占めていた。電気・ガス・水道・化学肥料などない時代、雑木林がその役割を担っていたのである。人が増えても雑木林は増やせない。そこに住む人が増えれば、燃料・肥料・水が不足することになる。よって、子どもが独立する場合、家を継ぐ者以外は同じ生活圏に住まないことになっていたという。その雑木林は自然林ではなく、一部の山主によって農閑期の秋から春にかけて、昔ながらの方法で管理されていた。雑木林の主な木であるナラやクヌギは、12・3年に一度、伐採される。木は薪や炭にされ、落ち葉は冬の間クズハキによって集められ、腐葉土として田畑の肥料にした。ヒジロ(囲炉裏)で燃やした落ち葉などの灰も肥料として使われた。木を切った後、しばらくはクズハキをせず、切り株から出た新芽も自然のままにさせて、伐採から3年~5年後の「もや分け」と呼ばれる時期が来ると、薪や炭になりそうな木だけを残して他は間引いてしまう。山を覆いつくしていた篠竹は、冬の間の内職であるメケエ(目籠)作りの材料に、茅は屋根を葺くのに使われた。薪や炭はぜいたく品で、山主などの上層農家は薪を燃料として使ったが、一般農家の燃料はクズハキによって集められた枯れ枝や落ち葉・笹竹が主だった。炭は八王子や東京方面に売られていき、地元では主にお茶の精製と当時の一大産業であった養蚕の生産量増加のために使われた。まずは、5月の1回目の孵化時、通常6月に孵化する蚕(かいこ)を1ヵ月早く孵化させるため、蚕室の暖房が必要だった。次は、5月に人工孵化させた蚕の掃き立ての時。これも人工的に夏の環境にするための蚕室の暖房に。そして乾燥庫で繭を乾燥させ、中の蛹を殺す作業時の燃料として使われた。また、雑木林はそこに住んでいる人に現金収入をも、もたらしていた。元締めが山主から薪山(まきやま)として山を買うことで山主に収入をもたらし、農家の人たちは元締めに雇われ、木の運搬人となることで農閑期に現金収入を得られたのである。篠竹で作られたメケエも、冬の間のいい現金収入だったらしく、専業としていた人もいた。戦後の急速な石油の普及で、薪や炭が必要とされなくなり、化学繊維の出現が養蚕を壊滅させ、雑木林はその役目を終えてニュータウンに生まれ変わった。地中に様々な管が埋まり、かつての山の斜面や谷を縦横に車が走る私たちの街を、山の神様はどのような思いで眺めているのだろうか。2001.6.1号掲載

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