たまには多摩語り 【電燈の灯った日】電気料の集金は青年団が

 関東大震災から2年後の大正14年3月24日、玉南電鉄線(現京王電鉄)が府中~八王子間に開通し、多摩村の北端部を初めて電車が走った。同じ年の4月15日、関東配電(現東京電力)がかねてからの工事を終え、多摩村全域に電灯がつくことになった。その夜、各家では家族全員が注目するなか、厳かに電球のスイッチをひねる。ぱっと辺りが明るくなり、部屋の隅々まで煌々と照らし出されるのを見たとき、皆「世の中が変わった」と思った。その頃の明かりといえば石油ランプだった。火の部分を覆うガラス製のほやは油煙ですぐに黒く煤けてしまう。汚れたほやの掃除は、当時の子どもたちの大事な仕事とされていた。ランプは皆が集まる居間と台所などにしかなく、灯す時間もせいぜい2・3時間と限られていた。電灯が灯り、部屋の中が見違えるほど明るくなって夜なべ仕事もそれまでとは比べ物にならないほど多くできるようになった。特に多摩・由木などの村では篠竹が得やすいことから、目籠やざるなど竹製品の生産が一気に増えて全国に販売され、主要な副業となった。こうして、生活に大きな変化をもたらした電灯であるが、各家で使用した電気料の集金は、青年団に全て任されていた。当時の青年団は20歳から25歳までの若い男女で組織され、講習会・講演会などの文化的な催しや副業品の品評会、運動会などが盛んに開かれ、若者が大人としての礼儀や社会性を自然に身につけていく場となっていた。活動資金として団員から会費を集めたが、関東配電からも団員が集めた電気料金の一定割合を手間賃として支払われたためそれも活動費の一部となった。お金を扱うことなので集金するときは必ず2人連れと決まっていた。夜仕事を終えてから、手に提灯を提げて村の家々を廻って歩く。「こんばんは。電気の集金に伺いました」と、まずは青年団員としてのきちんとした挨拶から始まり、「今月は電気代が多いが、計算間違いはないか」などの会話をきっかけに、ちょっとした世間話をする。村の人に顔を覚えてもらう良い機会でもあった。集金先の家に若い人がいる場合は、団の催しを知らせたり入団を勧誘して組織の拡大を図ったりなどもした。夜なのでお互い気持ちもゆったりとし、その家の人と遅くまで話し込むこともあり、そんなことが縁談へと発展することも決して珍しいことではなかった。 2001.3.1号掲載

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