筆舌 創刊40周年に向けて 明日の多摩を考える①

 あけましておめでとうございます。本紙もお蔭様で今年創刊四十周年を迎えます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 これからの多摩ニュータウンを語る上で、開発当初この地域のリーダーたちは何を考えていたのだろうか、から探ってゆきたいと思います。
 戦前の多摩丘陵の村々は養蚕が唯一の産業であって、それに伴う産業も多く、地域は安定していた。
 ところが先の大戦と戦後の石油製品の登場によって、生糸は輸出が振るわず養蚕は壊滅し、生糸の生産も衰退していった。
 その頃の地域のリーダーたちは、何とか養蚕に代わる産業はないものか、と試行錯誤を繰り返していた。このままでは従来の地域経済を維持していくことさえ困難になる、将来の発展の見込みが立たないとの思いだった。
 多摩村や由木村は取り残されてしまうのではないか、という危機感を持つと同時に、焦りが見られるようになっていた。
 ここで多摩や由木、稲城村の自然環境を記すまでもないが、稲城村の平地部分では、すでに梨の栽培に取り組んでおり、「多摩川梨」として知られるようになっていた。
 多摩丘陵の狭い、猫の額ほどの谷間の田んぼや急斜面の畑、そんな環境の中で何が生み出せるのか。
 そうした悩みや焦りの結果、多摩村では、燃料としての需要が少なくなった雑木林に、もう住宅地開発を受け入れてもいいのではないかということになった。駅(聖蹟桜ヶ丘)に最も近い場所(市役所の裏山に当たる現在の桜ヶ丘団地)を住宅地に開発してもらおうということになり、京王帝都電鉄に相談して、当時の村長杉田浦次氏や総務課長の長谷川惣一郎氏などが中心となって依頼をすることになり、高級住宅地として開発が進められることになった。
 村をあげて協力体制を整え新しい街づくりの一歩を踏み出すことになった。
 一方由木村では、昭和30年代前半に町村合併問題が起き、自治圏の帰趨をかけた戦いが繰り広げられていた。当時の岩下一蔵村議会議長は「南多摩東部五ケ町村」と呼ばれたた日野町、七生、多摩、由木、稲城村を大同合併し広域自治圏を確立する構想を主張し、その可能性を追求していた。 本紙社主 横倉舜三 090101号掲載

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