たまには多摩語り 多摩川【多摩川がもたらした恵み】

 多摩川が幽谷から海辺に至る河川美は古来より人々を魅了し、数々の芸術を生んだ。多摩市指定有形文化財の「調布玉川惣画圖」もその一つで、今から150年以上前に、関戸の名士でもあった文化人相沢伴主によって作成された地誌的な川絵図である。幅30cm、長さ約13メートルの巻物に描かれた清流多摩川と、その流域の名勝地がその美しさを今に伝える。多摩丘陵で数多く発見された古代遺跡は、河川沿いに帯状に分布している。起伏が多い多摩丘陵では多摩川の水量も多く水系が発達した。支流の大栗川、大田川、乞田川、三沢川、堺川などの流域に縄文人の生活の跡を見ることから、川が如何に生活の基であったかが分かる。下流に豊かな水が流れ、外敵や川の氾濫から守ってくれる丘陵が横長に広がる…。多摩丘陵は生活に適した場であった。湧水や水がボコボコ出る掘りぬき井戸の豊富な水は、農耕や養蚕、鯉の養殖など様々な恵みをもたらした。神奈川県であった三多摩が東京に編入されたのも、多摩川の水系に因る。皇居をはじめ東京では、多摩川の水を飲んでいたが、あるとき羽村の堰に菌を流したという噂が広まり問題になった。それを機に上流まで東京の管轄にしたのである。清流多摩川には漁業組合に管理されるほどの鮎がいて、明治天皇も関戸へ鮎漁にいらした。鮎は高級魚で庶民がいつも食べられるものではなかった。関戸の井上という料亭では、多摩川に屋形船を出して上流階級の社交に利用されていた。プールなどなかったため、澄んだ川で大人も子どもも泳ぎ涼をとったのである。その後、関東大震災で壊滅した東京の復興にコンクリート需要が大幅に増え、多摩川の砂利が大きな役割を担った。是政から東京に砂利を運ぶ電車は砂利線と呼ばれた。多摩川競艇場は砂利を掘って開いた穴が池になったものを利用して作られた。のちに是政駅前は連光寺の山を削って埋め立てられた。鑓水商人が構想・着工した南津鉄道も砂利運送の必要性に目をつけたのが始まりだった。不況になり工事は中断してしまったが、当時の航空写真には線路の跡を見ることができる。古代から人は川のほとりに生きてきた。川の水は常に新鮮で、上流から肥沃な土を運んで下流の田畑に恵みを与えた。治山治水により、川は生活の脇役になり化学物質で汚染されてしまった。もう一度、鮎が棲めるような、子どもたちが泳ぐことのできるような清流を、蘇らせたいものだ。 2000.8.1号掲載

~ 広告 ~

自家発電工房

関連記事


カテゴリー: たまには多摩語り   パーマリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">