たまには多摩語り かいこ【一大産業だった養蚕】

 幕末から明治・大正・昭和の初期まで、「養蚕」は多摩丘陵一帯の一大産業であり現金収入の大きな柱となっていた。一ノ宮や日野方面などの平地では水田が多く桑が植えられなかったため丘陵地帯で盛んだった。全国的にも輸出が盛んに行われ、長野県の野麦峠などの女工哀史を生み出した。養蚕は季節と深い関わりを持っていた。水のぬるむ季節になると準備が始まる。屋根裏に積み上げてあった蚕具(えびら)を川できれいに洗い消毒用のもみがら炭を作り始める。若葉の頃、蚕をキジや鳩の羽で作ったはけで掃立てる。掃立てから3、4日経つと蚕は1回目の休眠と脱皮を始める。また4、5日で2回目の休眠と脱皮が行われる。4回の脱皮を繰り返し、25~26日を超えると蚕はひきる。この間、「お蚕の先生」と呼ばれる指導員が各家を廻る。先生につかないで勝手にやるのは難しく全滅の恐れがあった。戦前は各村に一人づつ指導員がいた。この辺りでは、多摩村と由木村にも一人づついた。養蚕の収入が1年の生活費の大半を占めていたため、失敗すると深刻だった。蚕が脱皮する時期が一番抵抗力がなく弱い時期で、大事に扱わないと死滅することもある。全滅してしまうとやり場のない憤慨はしばしば嫁に向けられ、嫁はいたたまれず家の外で一人で泣いていたものだという。蚕は糸を吐き出す頃になると、体が透き通ってきて桑を食べなくなる。上蔟(まぶし)に入れ繭を作らせる。さなぎに変わるまで1週間乾燥させる。糸をとるか生繭のまま製糸会社へ売り渡すか、農家によって選択は異なるが、生糸をとる場合には乾燥庫で繭の中の「さなぎ」を殺さなければ保存は効かなかった。蚕は春児・夏児・晩秋と年3回獲れる。春は枝のままの桑を与えるが、夏と秋は子どもと女性が畑へ桑の葉を摘み取りに行く。摘み取った葉は萎れないように穴ぐらに入れておく。当時はどこの家でも養蚕のための穴ぐらを持っていた。冬の間は、炭焼きをしたり竹を切り出してえびらを作るなど養蚕のための下準備に精を出す。このように1年の暮らしは養蚕のために費やされていた。しかしこの産業は戦後、ビニールや人工製糸が盛んになり、生糸の生産減少とともに衰退していった。農家では、機械化をしたり、都心に近いためほうれん草やねぎ・芋などの生産も試みたが、酪農や養鶏など、どれも養蚕に代わる一大産業にはならなかった。多摩ニュータウンの誕生も養蚕の衰退がもたらした産物だとも言えるのではないだろうか。 2000.6.1号掲載

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