稲作りの最初の仕事は「堰普請」だ。苗代を作る前の4月下旬から5月の初旬にかけて、川をせき止め田圃に水を引き込む「堰」を作る。堰普請は米作りには欠かすことのできない作業だ。土を詰めた俵を川に並べ、俵に杭を打ち込んで流れをせき止める。その下流に松の丸太の杭をいくつも打ち込み杉の葉で覆い隠す。堰の手前には田圃に水を引き込む取水口を設ける。水路は、丸太の杭を間隔をあけて打ち込み間に板を張って作る。丸太や杉の葉などの材料は、水を引き込む田圃の面積に応じてそれぞれが持ち寄り、堰に一番近い人が堰普請の作業をする人たちのために、お茶とおやつを用意した。堰は半日から1日で出来上がった。取水期間中は田圃に常に、水が入っているかどうか夜も当番で確認に行く。水は7月終わりまで田圃に流しいれ、稲穂が実り始める頃には取水口を閉める。農家の人にとって5月から8月始めまでは、まさに水との戦いだった。丘陵地における川の水量は、下流の平地は豊富だが源流に近い上流は少ない。だから山の奥へ
行くほど水はこの上なく大切なものとなった。多摩市内を流れる多摩川流域は水量が多く堰を作る必要がなかった。直接川の水を田圃に引き込んだ。八王子市と多摩市を流れる大栗川の源流は旧由木村の西端に位置する。御殿峠の山中にある「大栗」の名は、多摩地域に栗の木が多かったことに由来するという。多摩ニュータウンの造成時にそのほとんどが伐採されたが、栗の木は腐りにくいため京王線の枕木に使用された。大栗川は大田川と松木合流し、由木地域や堀之内、別所、大塚を通る。そして唐木田から流れる乞田川と関戸で合流して多摩川に流れ込む。多摩川を除いたそれぞれの川の流域には、大小の堰が何十とあり田を潤していた。大塚帝京大学前にあった「堰」が、この地域では最も大きいものだった。堰の近くでは水車小屋で精米したり、子どもたちは水遊びや魚捕りに興じた。戦後になると堰はコンクリート製に替わり、堰普請も行われなくなった。魚が棲み田畑を育てる用水路であった川は、開発に伴い近代的な河川に改修され、今は石で固められた排水路となっている。息づく川の証しでもあった川面のきらめきや水音は、田園風景とともに遠い日の記憶の中で綴られている。 2000.5.1号掲載
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