現在の乞田川にある、数十メートル毎にある段差は、堰の名残である。土のう・土俵と呼ばれる、俵に土を詰めたものを川に並べ、流れを弱めて、そこから川の水を田に引いて米を作っていた。今でも「せきとめる」「せきをきったように」などの言い回しが残る堰は、昔、生活の中にあった。
毎年、田植えが始まる前の4月下旬に、堰普請を行った。堰を使う家々が、堰に使うものを田の面積に応じて持ち寄る。俵、土のうを流されないように止める杭、枝、葉、それにお茶菓子。杭は腐りにくい松を使た。まず川に杭を格子状に打ち込む。そこに土のうを置き、間を杉の枝、葉などで埋める。
そうして溜めた水を田に引くのだが、その流れを利用して水車を使う家もあった。水車が回ると、芯棒にセットされた杵が上下し、下に置いた石臼をついた。石臼の底には、玄米が割れないよう、丸太の輪切りをコマ状にしたものを置いた。2、3時間かけて突いた玄米をふるいにかけ(ぬか通し)、もう一度石臼に戻す。1時間も経てば、白米の出来上がりだ。
水車がない家は、近くの水車小屋を使わせてもらったり、杵の反対側を足で踏むと米が突ける「地がら」を使った。子どもは本を読みながら、大人は雨の日などにそれを踏んだ。
乞田川は、血液が身体の隅々に循環するように田を潤し、多摩の稲作の生命線の役割を果たした。そして堰の下は少し深くなっていて、ギバチ、ナマズ、ナツメウナギ、フナなど様々な生物が棲み、滋養にも恵まれたのだった。
川沿いで一番大きな水車があったのは、乞田の増田さん。当時「車」の屋号で呼ばれ、今もお米屋さんとして健在だ。
水車は丈夫な栗の木で作られた。乞田川南側の、北に傾斜した土地には、栗が多く自生していた。それらを利用して、戦前は栗、栗めし、栗の木炭などを市場に出荷した。後に京王電鉄と合併した玉南鉄道(大正14年に府中~八王子間開通)の線路の枕木も、多摩産の栗の木で作られた。
堰は大抵、秋の台風で壊れてしまった。しかしその頃には刈り取りも済み、堰の役目も終わる。次の出番は、翌春の堰普請。
今の乞田川の段差は、魚が遡れるような易しいものではない。けれども今の時期には、川にいろんな種類の渡り鳥が訪れる。親子のカモがいたりすると、ついつい時間を忘れて見入ってしまう。大雨に荒れた川とはとても思えない、静かな光景だ。 081201号掲載
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