- 2003-05-01 (木) 11:00
- 【特集】多摩NT30年を検証
普通なら歩くのは無理な距離。交通機関のない地域にバスが走った当時の様子を探ってみよう。
◎初めてのバス
かつての多摩村。聖蹟桜ヶ丘駅と南西部の中沢・唐木田地区を結ぶ道路は、大栗橋~村役場(現市役所)前~乞田~落合を通る都道が1本しかない。
横倉舜三(本紙社主)著『多摩ニュータウンのあけぼの』によれば、この道路は幅員4メートルの砂利道で、中沢・唐木田地区からは駅や多摩川べりの多摩中学校まで約8キロの道を自転車か徒歩だった。
路線バス実現に尽力した著者は「昭和31年2月16日、いよいよ開通の日 ・・・ 午前7時、1番バス」と記している。初めての旧称京王帝都電鉄バスは折返し点の中沢停留所に待機し、ここから桜ヶ丘に向かって出発した。当初は1時間に1本程度の条件だったが「道路には住民総出で車のすれちがう退避所を何十ヵ所か作った。1年ほどで路線は中組停留所まで延長された。その先はまだ道路が狭くてバスが走れなかった」という。 しかし、これが今の多摩市を縦横に走る路線バスのはじまりだった。
◎団地輸送開始
開発の進むニュータウン地区に、初めて諏訪2丁目~桜ヶ丘間の京王帝都電鉄バスが走ったのは昭和46年3月26日、最初は1日30往復だった。
また『神奈川中央交通80年史』には、8月10日「諏訪・永山団地線で京王電鉄 との共通定期券発売」の記録がある。神奈中バスがこの路線に参加した時期と推定できるだろう。
諏訪・永山地区~桜ヶ丘駅までは約4キロ、交通手段は自家用車送迎かバスに頼るしかない。
◎開通当初の記憶
永山の多摩消防署前からニュータウン通りまで、約500メートルの道路は区画整理で工期が長引いた。担当した都・事業推進課などによれば、道路が完成してバスが通ったのは昭和46年8月だった。いま正確な日付は不明だが、これは神奈中バスの参加した8月10日ではなかったのか。
それまでの4ヵ月半、諏訪2丁目からのバスは右折して丘を越え馬引沢経由でニュータウン通りに出た。
異様な暫定路線で、一人の主婦からはこのだらだら坂を越えるバス通勤の記憶を記したハガキを頂いた。
しかも、その先は未整備の大栗橋交差点と地上線だった京王線中河原踏切の影響で大渋滞が続き、1キロ走るのに20~30分もかかる始末で、当時の全国紙は「絶望的」と書いている。
昭和49年、当時は諏訪2丁目団地に住んだ福島真氏54(かしのき保育園)はこう振り返っている。「バスはすでに諏訪4丁目まで乗り入れていた。昭和46年当初、入居は一部で完了しても、まだ陸の孤島で電話もすぐには引けず読売新聞の販売店(現YC多摩ニュータウン)が電話の中継をしてくれたという。 バスは朝夕など桜ヶ丘駅を利用する住民で満員だった。49年の6月、小田急が永山駅まで開通して電車の有難さがわかった」。
10月、京王線も多摩センター駅まで開通する。
諏訪・永山団地の入居開始からすでに3年以上経過していた。祝うべき大規模団地完成と鉄道開通は、逆に「絶望的」の言葉をもたらすほどズレていた。
同様にバス輸送に頼った愛宕団地~桜ヶ丘駅は約3・5キロ、その後の南大沢団地~多摩センター駅は約7キロ。入居者の思いを乗せてバスは懸命に走った。
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